2010年11月27日

盲福研の歩み20「マラソンコースを歩こう会」

 今年になって「ええとこさがそ!体験会」なる企画を復活させたが、会発足当初から実施している「ひまある会」の中でも様々な行事をやってきた。
 1980年代に実施したものとして、「マラソンコースを歩こう会」がある。
テレビやラジオでおなじみとなった高校駅伝のコースを実体験してもらおうと、西京極競技場から国際会館まで21kmを1日で歩こうというもの。全国の視覚障害者の人たちにも点字毎日を通して参加を呼びかけ、幾人かの人が遠くから早朝出向いてきた。
 西京極競技場前に9時半に集まり、30数名で出発。速く歩く人もゆっくり目の人もあって先頭から末尾までは長い列となる。携帯など持ち合わせていない時代。担当の者は、脱落した者や道順を間違えた者はないか、何度も前へ後ろへと移動して人数確認をしたものである。
 西大路から北大路、堀川から紫明通りを経て烏丸通りを下がってちょうどお昼頃に御所に着く。ここで昼食と自己紹介。ゆっくりとは休んでいられない。気を取り直して後半のスタート。銀閣寺前に午後3時頃に着いたろうか。ここから白川通りの上り坂が始まる。
そして、秋の日も傾きかけた午後4時半ころ、何とかようやくゴールイン!私の初代盲導犬エドくんもさすが疲れたのか落ち葉の道路の上にばっさりとダウンしたものだ。
 それでも一定の達成感は味わえた。それも3度・4度と回数を重ねて来ると感激は薄らぎ疲れだけが強くなって私は半ばで棄権したこともある。
実体験を求めた行事としては、思いっきり広い場所で走ったり自転車に乗ったり、竹馬にもチャレンジしてみようということで、隣県の希望ヶ丘に観光バスを使って出かけていったことがある。
日頃は人の手や目を借りないとなかなか思いのまま行動できない視覚障害者にとって自由に動き回れるということは日常では感じられない開放感を味わえるものだ。しかし、その開放感がついつい暴走を誘って、あやうく大事故を招く場面もあって、主催者としてはどきり・ひやりの1日ともなる。
限りなく自由な行動を提供しようとする発想を実現させるためには、仲間の晴眼者有志の理解と協力があってこそ!
やはり、あのころの若さがあってこそ、難しかろうと思うことも可能にしていく力があった。

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2010年09月11日

盲福研の歩み その19

校区で学ぶ視覚障害児教科書保障の取り組み
 視覚障害の有る子供さんを持つ父兄から「地域の学校で子供を学ばせたい。点字教科書作りに協力してもらえないか?」との相談を受けた。
 1985年当時は、全国あちこちで統合教育の名の下、視覚障害はあっても近所の友達と一緒に校区の学校で多くの集団の中で学ばせたい、と考える父兄とその支援をするボランティアの活動が取り上げられつつある時代であった。
 京都でも1・2件そうした事例を耳にしていた。
 我々盲福研でも、この話がある数年前から視覚障害児の問題について盲学校教諭やライトハウスの盲乳幼児施設職員と「子供たちの可能性をどのような環境下で引き出していけるか」などの内容で話し合いを進めているときであった。
 点字教科書作りについては、点訳者は何とか確保できる見通しはあった。しかし、この取り組みは単に点訳活動をするというものであって良いのだろうか?会の中でもいろんな角度から話し合いを重ねた。
 盲学校というのは、盲学校で学ぶ子供たちのみの教育機関ではなく、地域で学ぼうとする子供たちも支える教育センター機関にならなくてはならないのではないか?
 ボランティアのみで点字教科書作りをするのではなく、そのノウハウを知る盲学校が校区の学校とも連携してサポートしてもらうのが本来ではないのか?
 そうした疑問と要望を、実際に盲学校へ出向いて教頭と話し合ったものである。
しかし、その対応は想ったより厳しいものであった。
盲学校も、このころから重複児童が増えており、「どうしてあなた方ボランティアは日の当たる人たちの所へばかり力を注ぐのだ」と公然と言われたときには返す言葉を失った。
 現実論としては、盲学校は京都府管轄であり、市内の学校は京都市管轄であって、職員間の連携も容易ではないということも見えてきた。
 とにかく我々が動き出さないことには4月からの入学は考えられないということで、その後のことについては直面しつつ解決していくしかない、ということでスタートした。
 まず、実際に点字教科書を作って活動している支援グループと接触して、経験に基づく助言を受けることにした。
 また、教科書を作るに当たっては担任とも話し合って、見えないこはどんなことであるかを理解してもらうとともに、授業の中で使われる教科書をどのように点字で表現するのが望ましいか、互いに手探り状態の中で話し合った。
 教科書は、国語・算数・社会・理科の各教科に別れて、それぞれに5人程度の点訳者を当て、数ヶ月前に父兄が手に入れた教科書をばらけて分担し、各教科の班ごとに一定の書き方の調整の話し合いをしてから当時はまだ手打ちの点訳作業に入り、読み合わせとまではいかないまでも明らかに分かる誤字やレイアウトの問題などを全教科私の方で校正し、何とか授業に間に合わせるようにした。
 授業で使うものは教科書だけではない。プリント類や試験問題など、昨日・今日に間に合わせねばならぬものもある。こうしたものについては我々では処理できぬことで、全て父兄が夜を徹して行うこととなる。
 当事者である父兄と私との間では立場から来るずれも見え隠れする。
視覚障害児全般という立場から教育環境を考えていきたいと想う私と現に子供を受け止めてもらっている親御さんとのアプローチのしかた(今となっては具体的にどんなものであったかを記せないが)、妥協せざるを得なかったというような記憶がある。
 今でも覚えているのは、私が「1視障児のためにやっていること」と言葉に出したときには「冷たい言い方やな?」と言われたものである。今だったら正面きってそんなことは言わないだろうが。

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2010年06月02日

   盲福研の歩み その18 「これからの生と死を考える=福祉の原点を問う」 市民講演会の開催

 会員の中に若くして病状が進行して亡くなるという人が現れた。その人は献体を申し出ていた。
 朝日新聞に「盲と私たち」という連載を書いておられる藤田論説委員が脳死の事や植物人間についても出筆されておられるということを聴いていた。
 83年の頃、点字メニュー活動のことで朝日新聞には何度も取材してもらったり、活動費助成でお世話になっていた。
 生と死、そして、障がいの有る者無い者。これを接点として、ぜひとも藤田氏からお話を伺いたい、と考えた。
 思い立ったが吉日と、早速何時も同行してくれているH氏と一緒に朝日新聞京都支局へ出かけ、Y支局長に直接合って「何とか藤田氏のお話を伺えるようお力添えいただけないでしょうか」とお願いしたものである。Y支局長さんもご理解の有る方で「私から話して見ましょう」と言ってくださった。
そして、関西へ来られる用事も有るということで藤田氏と講演いただくに当たっての事前の打ち合わせをする機会を作っていただけた。
 角膜移植など日本ではなかなか提供する人が現れない。「死」という事実と生きている人たちへの関わり。
障がいの有る者と無い者との関係においても理念だけでは解決しないわだかまりが現実に存在している。
そうした問題を一つの接点として論じていただけたらとお願いした。
 京都府や京都市、諸団体に後援依頼をお願いするために有休をとってあちこち頼みに出た。
そして、いよいよ講演当日、京都会館の会議室には200名を越える来場者があった。
 藤田氏は「盲と私たち」という連載を集約した「盲と目あき社会」という本を出されており、全国の視覚障害者関係の所へも出かけておられる。
 会場には何名かの視覚障害者もいたが、藤田氏は話を始める前に、「目の見えない方もおられるので私の自己紹介をしておきます。
身長はあまり高くなく桂米丸のようだとも言われていますが」というような所から始められた。
 主催者側としてはお話を伺った後でフロアーからの質問の時間もそれなりに取りたいと考えて、講師にはそのようにお伝えしておいたのだが、豊富な資料を準備されており、内容はずんずん深く広く進んで、休み無しに2時間はたっぷり話された。
藤田氏の話の中で、最も印象深かったのは「事は、自らの問題として引き寄せて考える」ということ。
藤田氏ご自身、障がいの有る子供さんと一緒に生活され生きて来られたという事も説得力の有る話になったのだろう。
 会場には解剖学者など藤田氏の話を聴きに来られた各方面からの方もおられ、こんな大々的な市民講演会をよくも若い我々で開催できたものだと終わってみて感じ入ったものである。
 講演会終了後、有志が集まって夕食を取りながら藤田氏を囲む懇談会を持ってもらった。
懇談会の話題の中で記憶にあるのは「ハンセン氏病の人を隔離しておくようなことをさせぬよう皆さんも働きかけなさい」と言われたこと。
ハンセン氏病で視覚障害を追っている人たちは指の触覚も障がいされて唇や舌で点字を読んでいると聴いている。
当時、その言葉に敏感に反応できなかった自分がいた。それから20数年後、ようやく開放への道が開けた。
 藤田氏のいう「自らの問題として引き寄せて」というテーマは生涯の課題としていろんな場面で生じて来ることだろう
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2010年02月08日

盲福研の歩み その17 「他グループ・組織との連携」

 我々の目的「地域において市民一人ひとりが障害の有る無しを越えて個々を大切にする」ための啓発は小さなグループのみで達成できるものではない。
 そうした思いからいろいろなグループや組織との連携をはかった。
 まず、ライトハウスを中心に活躍するグループ間で情報を共有していける場作りをしていこうではないかと各グループに呼びかけて、83年2月「視覚障害関係ボランティア連絡会(視ボ連)が発足。盲福研がその事務局を担当することとなった。
以後、当初は2ヶ月に一度、最近は3ヶ月に一度集まって、各グループ間はもとより、当事者団体やライトハウスからも関係者が参加して情報交換をしている。
 地元のボランティア協会行事にも参加し、84年から同協会が主催したボランティア講座には実習先として、また、実行委員としても出席している。
 当事者団体・ライトハウス主催の白杖安全デモや女性部のマナー講習会などにも参加。
社会福祉協議会や青年の家・YMCAの後援を得て各地で点訳講習会を開催した他、聴覚・精神障害者に関わるボランティアともコンタクトを取り、車椅子使用者数名とも連絡を取り合って話し合いやイベントを開催した。
 具体的な1例として「運動会」を取り上げてみる。盲学校のグランドを借りて2・3度行った。
 視覚障害者はもとより車椅子使用者や精神障害者も交え、近隣の人にも参加と寄付を募ってチラシを配布した。近くの小学校の生徒が20人ほど参加したこともあった。
 当時の日誌をくってみると、重度障がい者の参加できる競技を考えねばならない。車椅子1500m走をプログラムに入れたが、土壌では駆動するのがしんどくてサポートする人が後ろから押したが、「使用者の受け身の姿を曝すことになったのではないか」との意見に「そうしたことを体験できた喜びを味わえたと取れば良いのではないか」との感想もでた。参加者は200名くらいで模擬店なども協力グループに出してもらった。
 この企画をするにあたって当事者団体にも協力を求めたが、2週遅れで返答があり、競合・力分散・当団体にもっと協力すべし、などを理由に断ってきたことは残念であった。
 そうした状況もあって、こうした行事により多くの視覚障害者を取り込むことができず、見える人がアイマスクをかけて「疑似体験」をする姿が多かったことが当時の活動の一端を物語っている。
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2010年02月07日

盲福研の歩み その16 「視覚障害者ご夫婦の地域生活実態調査」から

 視覚障害者にとって、文字情報のバリアとともに、行動の自由の制限というのも大きな課題である。
 見えないがゆえに地域生活場面で、どのような不自由を感じておられるのか?その不自由をサポートしていくためには、地域の住民としてどう対処していけば良いのか?本会として、そのテーマに取り組むこととなり、まずは実体調査を行った。
 1983年、今なら「プライバシー情報」として提供されないであろう情報を当事者団体から得て、ご夫婦とも視覚障害者の32世帯へ会員が手分けして主に電話を使っての聞き取り調査を実施した。
 調査内容は、地域生活の中で、買い物・文字処理・町内会やご近所とのつきあい・公的ガイドヘルパーについてなど11項目について問い合わせた。
 ほぼ全ての世帯から回答をしていただき、その分析・報告は回答者へ点字印刷してご報告した他、我々が編集・製作していた「ナウ京都」という点字雑誌(点字図書館寄贈)の記事としても掲載した。
 調査結果からみえてきたものは、当時はまだ公的ガイヘルの利用範囲が狭かったことから「ガイヘルをもっと利用範囲の広がるものにして欲しい」という要望。
 ちょっとしたことはご近所の方にお願いしなければならないこともあって近所づきあいは慎重に大切にしている。町内会の集まりや行事にも参加できないことが多いので寄付金を多くするとか経済的な負担で対処している人も多かった。
 町内で持ち回りの当番について、当事者も町内の人も公然と「免除」というのがまかり通ってしまっているのはいささか寂しく、「目の提供」をすることで1住民としての役割を果たせるのであれば、地域の人たちにどのような啓発をしていけば良いかが過大となった。
 回答者の 切実な声としては、「目の提供」を緊急に求めたいというときに、関わってもらえる人がない。
 たとえば、まだ会話ができない乳幼児が急に泣き出したときに、その身何が起こっているのかを判断したいけれど、「触れて見る」だけでは分からない場合もあり、触っては余計に危険なケースを招く場合も考えられなくはない。体温計一つ見るにしても当時はまだ音声の出るものがなかったのかもしれない。
 一方、この聞き取りを通していろいろ工夫しておられる日常も見えてきた。
ちょこちょこ歩きが出来始めた子供を外で遊ばせるさいに、その子の体に鈴をつけてその音を便りに後ろからお母さんが見守る。しかし、ちょっと家から離れると我が家が何処か分からなくなることがあるので予め自宅のドアにスイッチオンにした小型ラジオをくくりつけておいて、その音源を頼って子供の手を引いて戻って来るというようなこともあるように聴いた。
 また、靴下は色揃いのものをくくりつけて選択するなど、経験に基づく知恵がいろいろあることを知った。
 比較的よくあった回答として、「お墓詣りにいきたいと思うが(当時は)ガイヘルを使う訳にはいかないし、散歩にも出たいけれど白杖歩行ではゆったり歩けない」など。
 生活の質を高めるためのサポート体制が不足していることも感じ取れた。
 この実体調査を通して、民間・地域の人が関わる「eye helpper」の必要性を感じた。
 行動のサポートのみではなくて、郵便ポストに入っているものの差出人のチェックなど、ちょっとした文字チェックが必要なことも分かった。
 本当は隣組、ご近所で関われることが望ましいが、生活場面に関わることからプライバシーをご近所さんには知られたくないという思いもあり、民間でもやはり「ボランティア」という立場・組織としてサポートするという体制にならざるを得ないのが現状である。
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2009年12月23日

盲福研の歩み その15

 「ファミリー学習会 「見えるって・見えないってどんなこと!」」
 視覚障がい者の現状を多くの市民の人たちに知って欲しい。とりわけ何の偏見も持たない子供たちに伝えていきたい。
 そうした思いが常々あり、活動の中にも積極的に取り入れていきたいと考えていた。
 当事者団体や施設が中心になってライトハウス館内で「視覚障害に関する生活展」なるものを毎年実施していたが、どうしても関心の有る人、知り合いなどが中心となりがちである。
 「点字メニュー」設置の話をKスーパーの窓口担当者としている時に、「このスーパーのプレイルームをお借りして障害の有る人の事を知ってもらえるイベントができたら良いと思うが協力してもらえないか?」と持ち出した。
 メニュー設置にも割と協力的だったS氏は、その話を受け止めてくれ、10月の末にそれは実現した。
 その日は、点字体験コーナー、手話の実際、車椅子使用者による体験談、盲導犬ユーザーのデモストレーション、福祉機器を扱う業者から関連物品の展示など。これまでに活動を通して知り合った人たちが気持ちよく協力してくださった。
 日曜日の買い物で賑わう日常のスーパーの一角で行った半日の企画であったが、全く点字や車椅子を見たことのない子供たちが興味深かそうに点筆を握って名前を打ち込んだり、盲導犬のことを熱心に訊ねたり。
 親子連れの人たちを含めて数百人の買い物客が立ち寄られた。
 この企画は、立ち寄られた人たちにお願いして書いてもらった感想文の中からも一定の成果があったことが感じ取られ、次年度も実施することにした。
 翌年、協力をお願いしたお店では、「見えるって・見えないってどんなこと!」のコーナーを訪れた人たちにお店からちょっとしたお土産まで出してもらった。
 3年目は、生協のお店の2階を借りて行ったが、これは場所の問題もあったのか覗く人も少なくて我々の初めのころの新鮮なアプローチ意欲もちょっと失せていて、この企画は3年で休止状態となった。
 「関心の有る人来てください」と引き入れるのでなく、全くそうしたことに関心も接触も無かった人たちに「知ってもらう」きっかけ作りとしてアプローチして行けたのは良かったと思う。
posted by よろてん at 13:27| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月21日

  盲福研の歩み その14「点字メニューとマスコミ取材」

 「点字メニュー」の活動に取り組みかけて数ヶ月後、「全てのお店に点字メニューを」と題して地元新聞に投稿し、それが投書欄に取り上げられたのみでなく、「点字メニューについて」ということで取材があった。
 それが写真入り記事となって掲載された。すると、他紙からも取材の申し出が次々と現れた。とにかくマスコミというのは初物に食いついてくる、
 我々活動をしているものにとっては、継続している中でみえて来る諸課題について掘り下げて報道し問いかけて欲しいと願っているが、現実には30年近くやっているメニュー設置運動などには関心がないようである。
 それでも当時、新聞やラジオ・テレビにまで取り上げられて、「点字メニュー」も一定のピーアール効果を得た。
 マスコミを通して視覚障がい以外の障がいに関わっているボランティアグループとの交流が始まったり、点字メニューを設置してくれたお店が主催する音楽会に幾人かの視覚障がい者を招待してもらったり。
 幾つかの福祉事業団から活動の助成金ももらえることになって、80店ほどの点字メニュー設置店を紹介した「点字メニューガイドブック第1号」を発行して地元の視覚障がい者に配布することもできた。
 そのころ、始まったばかりの視覚障がい者マラソン大会に、私が超音波めがねを使って参加した。
 やれやれの思いで何とかゴールインすると、先日「点字メニュー」のことで取材にきたH記者が近づいて来て「超音波めがねで走られてどうでしたか?」と聴く。顔見知りの気楽さもあって「めがねはちょっと重いので落ちないかの心配と電波の飛ぶ距離が限られているので前を走る人の背中を確認するのがなかなか難しい」というようなことを軽口で返答していた。
 ところが明くる日の朝刊に割と大きな記事として「長音波めがね・今一つ!」と題名をつけて載っているというのを聞いてびっくり! これにはまいった! というのも、この長音波めがね、某ライオンズクラブが高額を投じてライトハウスに寄付してくださったもの。それを実験的に使う第1号として私が預かっているものである。
「口は災いのもと」、忘れられぬ苦い思い出である。
posted by よろてん at 21:24| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月17日

盲福研の歩み その13 「点字メニューの取り組み」

 1980年、滋賀県で身障国体が開催された。
 その報道の中で、「目の不自由な選手のために点字メニューを準備しているお店がある」と聴いて、「これだ!」と直感した。
 というのも、会員の中で、一定レベルに達した点訳者は多くなってきたけれど、その技術を視覚障がい者に結びつける適当な活動がないものかと考えているところだった。
 「点字メニュー」設置の取り組みには、「点字の市民権確保」の他に、日常場面である飲食店で、日頃は点字など見たこともない市民の人たちに、実際に、視覚障がい者が点字を読んでいる所を見てもらえる。これは、地域に根ざした活動がしたいという盲福研の思いと一致する。
 そして、障がい者には奪われがちな「選択の自由」という点からも、「自ら選んで楽しめる」など。我々が取り組むにはもってこいの活動だ。
 早速例会の場で提案した。
 一応趣旨は分かるが、さてどのように取り組んでいくか?早速具体的な活動への話し合いが始まった。これは今までの学習と物作りが中心であった例会の雰囲気を変えるきっかけ作りともなった。
 当面の課題として、一つは、製作上の問題。お店に置いて有るメニューの上に点字を貼っていくのか?
飲食店で使うとなると、多少汚れても水に触れても対応できる素材でなければならないのではないか?
「点字メニュー」であってもお店の人にも分かるように墨字をルビしておく必要があるのではないか、など。
 「点字メニュー」を置いてもらう店は取りあえず視覚障がい者の利用度が多かろうと思われる盲学校やライトハウス近くのお店から始めよう。
 そして、一番問題になったのは、この「点字メニュー」の代金をどうするか?本来「メニュー」というのはお店がお客に提供するものであり、お店が作っているもの。視覚障がい者も、同じお客として扱うのであれば「点字メニュー」の経費もお店が出しても良いのではないか。
 しかし、まずは手始めに会の持ち出しで幾つかのお店に置くことから初めて、いろんな角度から検証していこうではないか、ということになり、幾つかのお店からメニューを預かってきて点訳作業に入る。
 ここで次の課題が出てくる。
メニューの点訳も従来どおりの点訳ルールに準じてやっていって良いものかどうか?
お店に入ってメニューを手渡されても、限られた時間の中でオーダーしなければならない。
そのためには、より速く目的の物を見いだせるようなレイアウトをしておく必要がある。
 当時は、パソコンはおろかワープロもない。
点字は、もとより手打ちである。透明のタックシールに携帯用の点字器で打ち込んでいくのだが、常に使っている点字板からすると升目も小さく通常の紙の点字用紙からみると堅い!それより何より打ち間違えたら大変!ごしごし消して書き換えてもなかなかきれいにいかないので数箇所も間違おうものなら新たなシールを使わねばならない。このシール、けっこう良い値がすることもあって、神経を使いながらの作業となった。
墨字のルビは手書きで始まる。点字と点字の行間に書き入れていくことになるので、これもけっこう技術的な作業となる。その後、某新聞社の事業団から和文タイプの助成があって、これを使っていたこともある。
 汚れや水に絶えられる物として、紙打ちした点字メニューの上に、点字用紙サイズのビニールシートを被せて熱処理し点字を浮き上がらせコピーしたものを長く使っていた。
 しかし、この製作にはかなりの経費が必要で、この点からも「点字メニュー」の有料化を検討することになる。
posted by よろてん at 23:20| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月14日

盲福研の歩みその12 「市民活動として」

 伏見での日曜教室を終えての帰り道、仲間内で夕食を一緒に取りながらいろいろ話し合ったものである。
 ある時、私から熱くみんなに語りかけた。
 盲福研にとってのボランティアというのは!という前提で。
 真っ暗な道がある。灯りを持たぬ人がその道をおそるおそる歩いて行く。そこへ灯りを持った人が寄り添って来て「一緒に行きましょう!」と足元を照らしてくれる。「ありがとうございます」「どうしまして!」という会話をしながら無事行き着ける。
 この場合、灯りを持たぬ人は次にこの道を歩く時も不安である。常に灯りを持った人が現れる訳ではない。
 障碍の有る者と、それをサポートする奉仕者との間には、この灯りを持たぬ人と持つ人と同様に、「与え手」と「受け手」という関係が存在する。
 常に障碍の有る者が必要としているときにサポートが有る訳ではない。
 真っ暗な道を歩くのに、もっと明るくしておけば誰もが不自由を感ぜずに歩ける。
ならば、この道に該当をつけてもらえるよう働きかけようではないか。それは、灯りを持っていない人も持っている人も同じレベルで働きかけていけること。まさに、盲福研の目指す「ボランティア」というのは「これ!」と言い切ったものである。
 そうして、この論調?は、以後、私の前に現れたボランティア志願者に何十・何百回と言い続けてきたのである。
 しかし、こうした社会的活動としての働きかけをすることには抵抗を感じるという人は少なくない。
 むしろ、自分のできることとして、困っている人があれば足元を照らす「優しさ」だけは忘れたくない、という人が圧倒的に多いように感じる。
 その頃の私の思いは灯りを持たぬ者(障碍の有る者)の不自由さというものを共有することこそが活動として大切なことであって、当然「街灯をつけよう!」という発想に繋がっていって良いのではないか。そうした意識を持ったボランティアを増やして行きたいという思いが前面に現れていた。
 だが、自分の身に引き寄せてみて、車椅子使用者のこと、視覚・聴覚重複障害者のことなどを、どれほど知り・課題を共有して働きかけようとしてきたかを問い直すと忸怩たるものがある。
 そうしたジレンマを時間とともに引き吊りながらも、やはり当事者のみの問題ではなく「市民的課題」として身近な問題一つひとつを処理していきたいという考えは変わっていない。
 たとえ、「甘く・弱い」運動スタイルかもしれないが「社会の中の1個人」として認められる存在にするためにはこのプロセスが必要と考えている。
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2009年12月04日

盲福研の歩み 11 「現職復帰」

 Oさんが顔を出したのは 伏見の例会開講まもなくであった。
 彼は私立の高校の教師をしているが、最近視力が極端に落ちて来て、歩くのも白杖を使わないと難しい状態にあるという。
 とにかく点字を覚えて仕事を続けていきたいとのこと。
きちんとしたリハビリは専門の施設で行うとして、休みの日に住まいの近くでこうした点字教室をやっていると聞いて出向いて来たという。
 点字のルールを覚えることは容易であっても、中年になってから指先で触読するというのはなかなか大変なこと。それでも「点字」を自らの文字にしなければならないという集中力が1文字ずつを確実に読みとるようになってきた。
 例会のゲストコーナーでは、実際に板書にどのように生徒に伝えていくかのデモもやってもらった。文字を書くのに斜めにならないように枠組みの有るものを板書に当てて書いていったり、予め模造紙に問題などを書いておいて、それを張り付けるなど、いろいろな工夫をしていることが感じられた。
 しかし、時の流れの中で、学校が進学校になり、管理者の理解を得られぬままに、「障碍の有る教師」という特性を教壇で発揮する場を奪われてしまうことになる。
どんなにか無念で悔しい思いをし続けたことだろう。
 家庭を守るということもあって学校へは黙々と通勤を続けた。ある時から盲導犬ユーザーとなり片道2時間近くかかるルートを歩き続けた。
しかし、学校は校内へ盲導犬を入れることを拒んだ。校外に犬舎をおいてパートナーはその犬舎の中で、ひたすら主人が「帰ろう!」と声をかけてくれるのを待った。
 これより10数年前、小学校の先生だったIさんのことでも関わったことがある。
職場を追われそうになっておられたIさんを支援する会ができて地元の学校へ模擬授業をされるのに加わったことがある。それなりに工夫された授業であったが、模擬の生徒になっている我々に向かって「これ分かった人手を挙げて!」と言われたことに、若気の至り、「手を挙げてもらって分かるのですか?拍手か何かしてもらった方が良いのではないですか」と分かったふうに言ったものである。
自宅へ帰って直ぐ、中心的に活動されている先輩の視障者から電話がかかり「あんな場で、当人にとってマイナスになるようなことを言ってはならない」ときつくおしかりをくったことを今でも覚えている。
 教師のみではないが、目を失って現職でこれまでと同じように仕事を続けることは個人の努力だけでは勝ち得るものではない。
 本来は国や社会の体制のなかで、現実的には、管理者の、そして同僚のしっかりした理解と支援がなければ、いつまでたっても「特例」の事例としてしか世の中に認められない。



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2009年07月14日

盲福研の歩み その10 「日曜教室開講(ウサギと亀)」

 毎水曜日の夜の例会は継続していたが、より多くの市民に視覚障害者のことを知ってもらいたいという思いから、北に有るライトハウスの他に南の地でお昼間にできる場所というので、伏見区役所の公会堂をお借りして日曜教室を開講した。この日曜教室の会場探しではライトハウスの主事さんにお世話になった。
 この会場でもいろんな人との出会いがあった。小学4年生の女の子が「点字が習いたい」とお母さんと一緒に参加した。
 この日曜教室では、点字学習の他にいろいろ話し合う時間も設けていたが、その中で私は「ウサギとカメ」の話をちょっとアレンジして「障害」について考えてもらうことにした。
 足の速いウサギと足の遅い亀が競争をしようという。
 ウサギは初めから亀になどまける訳はないと思っている。挑発された亀はスタート地点に立つが、このとき「勝てる!」と思っていたかどうか?走り出して、途中でウサギは一休みして眠ってしまう。ようやく追いついた亀は「しめしめ!」」と思ったかどうか!
 そして、結果として亀が「勝つ」ということになる。
 我々が小さいときに教えられたのは、「努力すれば結果は出る」「油断大敵」ということ。
 私が曲げて話した内容は、亀は最初からウサギと正々堂々と戦おうとしていたのか?自らの脚力を確かめる機会としていたのであれば、ウサギが寝てしまったのを横目で見たとき、起こすべきではなかったのか?
 「しめしめ!」と相手の落ち度につけ込むようなことを利とするのもどうかと思う。
 むしろ、亀は走ることにおいてはウサギとは違うということを認識することの方が大切ではないのか。
走ることでは適わぬかもしれないが、水中の中では亀の方が元気に活動できる。それぞれが持っている特性を生かすことで元気に楽しく生きていける。
 一つの物差しだけを見て、良いとか悪いとか、判断基準を作ってしまうことで他者を下に見てしまうようなこともあり、迎合してしまうこともある。
 「障害」が有る無しは事実として、それぞれが持っている可能性というものを認め合う、そんな社会作りがしていきたいものだと話した。
 後日、小学4年生の女の子のお母さんから「内の子は標準より小さくて、日頃気にしていたのですが、先の話を聴いてちょっと掬われたようです」と言っておられたことが記憶にある。
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2009年07月12日

      盲福研の歩み その9 「視障児の取り組み(実体を知る)」

 当時の日誌をくってみると、
視覚障害児(視障児)の保育と教育に目を向け、まず、盲学校の現状を知るために、84年2月、京盲の先生を囲んで就学前の視障児を持つ父兄と我々会員が集まり、盲学校の実状の話を聞いた。
 また、これからの盲学校を考えると題して84年5月・同8月、ライトハウスにおいて、アイアイ教室職員・修学前父兄・盲福研会員が参加して集会を行った。
 86年11月には、盲学校在学父兄5名と話し合った。
 こうした、父兄と会員、アイアイ教室職員と会員、京盲教師と会員との話し合いを不定期に、その後何度か持った。
 このころから視障児の中にも視覚障害以外の障害を持つ子供が多くなってきた。
 あいあい教室の職員が「A君はノーマルだけど、Bさんはダブル障害があるので」というような言い方をしているのを耳にして、「それはおかしいのではないか、ダブル障害に対比して使う言葉ならシングルあるいはシンプルではないか」と食いついたものである。
 盲学校においても視覚障害の学習に加えて肢体・知的などの生活指導を導入していく必要性を感じだしているころだった。
 視覚障害の児童の数は少なくなり、盲学校の1学年の生徒数が一人か二人の所も出始めていた。
 私が盲学校へ転学した30年ほど前は1学年20名ほどいた。
 同学年の友達が少なく、障害が重度化する中で、校区の学校へ行きたいと希望する家族も現れ始めた。
 あいあい教室の幼児たちにも地域の保育園で交流保育をするような試みも出始めており、また、教育の在り方においても、障害の有る子はやはり専門的な教育をする盲学校で学ばせた方が良いという考えと、障害の有る・無しを越えて統合教育として取り組んでいくべきではないかとの主張もあって、修学前のご父兄は、かなり神経質になっておられたように思う。
 ちょうど 修学期に当たる子供の中に校区の学校を希望しており、点字教科書作りを当会でお願いできないだろうかという話があった。
 このことについては項を変えて書くが、盲学校へ通わせる父兄の中からは「私たちの子供たちにも手をさしのべて欲しい」という声が聞こえてきた。
 我々としては教育の有り様が「こうでなければならない」というような考えではなく、個々の子供たちの可能性を伸ばせていけるのであれば、出来ることについてお手伝いしたいという方針で関わることにしていた。
 盲学校に通いだした子供たちには点字の学習支援なども行ったし教科書以外の読み物作りもした。
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2009年07月10日

      盲福研の歩み その8 「視覚障害児への取り組み(体験会)」

 ゲストコーナーでライトハウスの1部門である視覚障害乳幼児の施設「あいあい教室」の職員からも話をきいた。
 そのことも一つのきっかけとなり、視障児への取り組みも考えた。
 まず、「触る動物園」を企画した。
 見えない子供たちにとって動物園は楽しいだろうか?運が良ければ動物たちの声を聴くこともできるかもしれないけれど、概ね周囲の人の説明を柵越しに聴いて済ませることになる。
 生まれつき見えない子らにとっては縫いぐるみの動物を見てそれなりのイメージは持つかもしれないが、もっとリアルに感じ取れたら!
 そうした思いで動物園の飼育係のYさんに「見えない者にとって一番分かりやすいのは触れること、動物たちに触れられるチャンスを与えてくれませんか?」と申し出た。Yさんは前向きに「検討しましょう」と受け止めてくださった。
 当日、盲福研の関係者、見える子も見えない子も合わせて50名が動物園に集まった。
 まず、当動物園の目玉であるゴリラの子供・京太郎に面会。飼育係に抱っこされた京太郎と握手したり、ボールにしきへびの冷たい感触を実感したり、子象に触れさせてもらったり。このとき子象を守るためか親象の鳴き声を初めて聞いた。
 見える子は見えない子の手をとって動物のあちこちをうれしそうに案内し、見えない子たちは初めての体験に大喜び!
 主催者としては、「これは、まさに子供ひまあるかいやなあ!」と感激したものである。なによりも、こうした企画を現に実現させてくださったYさんの度量にただただ感謝の思いいっぱいだった。
 この企画の成功を力に、今度は府警本部に「消防自動車や救急車を子供たちに見せてやってくれませんか?」と申し出た。
 そして、当日、20数名の子供たちは実際にパトカー・白バイ・消防車・起震車・救急車などの実物に触れ、乗車させてもらった。目で見ているよりも確かな体験をしたようである。
 また、会員の中に水泳の指導員をしている人がいたこともあって、子供たちの水泳教室も企画した。4〜10歳の視障児10名。水に慣れることから、バタ足程度まで。
 こうした体験をすることの大切さ。体験できる環境を整え・受け止めてもらえる心。
 こうした広がりを作っていくのも会の大切な活動だと思ったものである。

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2009年07月08日

盲福研の歩み その7 (点訳活動)

 時代の流れとともに点訳活動も変わってきているが、我々の活動を振り返ってみても、その時々の推移・取り組みを思い出す。
 1970年代に取り組んでいたのはプライベート点訳である。
 京都外大大学に在学する視障学生の英語点訳から始まり、その後、他府県の視障者からの依頼による漢方・聖書などの点訳を行った。
 こうしたプライベート点訳の場合、点字用紙代は依頼者に負担してもらうのだが、余分な負担を依頼者に負ってもらわぬように、当初は原本価格に相当するものを経費としていただくことにした。これは、後に「価格差保障」制度として公的に保障されるようになっている。
 その後、当会としては、点訳した原本枚数分は依頼者に負担してもらうとして、点訳の過程の中で当然書き損じて廃棄してしまう点字用紙代を会で持つことにした。おおよその目安として点訳者には1.5倍の点字用紙を手渡した。
 その頃になると、会員の中にも点字図書館に蔵書を入れる力の有る点訳者も現れ、プライベート点訳に関わってもらっても、そのきれいな点字や、一定期日内にきちんと仕上げる責任感には頭の下がる思いであった。
 この時代、点訳書は鮮度が落ちると言うのが問題になる時節でもあった。
 そこで、当会では新たな取り組みとして「ミドル ウィーク」と名付け、毎水曜日の例会の場で編集・点訳した小冊子をライトハウスのロビーに毎週置くことにした。
 近日中に開催されるコンサート情報、週刊誌に載った目新しい話題など5・6名が関わって10枚程度のものを作成した。
 しかし、この活動、かなりのエネルギーがいった割には実際に手に触れてもらえることは多くなく、結局半年も経たない間に休止してしまうことになる。
 80年代、今のようにインターネットでバス時刻表をみることもできない時代。ライトハウス最寄りのバス停の時刻表を移して点訳する作業を10年近く行った。ライトハウスの事務所に置くことに始まり、手元におきたい人にはプライベート点訳として提供した。
この活動は、やがてパソコン点訳となり点字プリンターによる印刷が容易になったが、本来は交通局で作成してもらえるのが望ましいのではないかとの考えもあり今は関わっていない。
 盲学校の小学部に児童書を寄贈する活動も行ったことがある。点訳を志す人は多くてもなかなか漢方や英語などの点訳をするまでにはいたらない。しかし、何時までも練習ばかりしているのではなくて実際に役立ててもらえるものがないか、という観点からも児童向け点訳を試みたことがある。
 私も個人的に紙打ちのころ、沢山のプライベート点訳をお願いした。今も本棚の中にそのころの参考書が幾つも並んでいる。もはや内容的には時代遅れの資料となっているものも少なくないが、1ますずつを丁寧に書いてもらった物を廃棄してしまうという思いにはなかなかなれない。
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2009年07月06日

盲福研の歩み その6 「目的ではなくて手段なのに」

 毎水曜日の「点字教室」が点字学習で盛り上がれば盛り上がるほど私の中ではジレンマが広がった。
 点字はあくまで窓口であって参加した人たちに知って欲しいのは視覚障害者をはじめとする「障害」のこと。せめて2時間の内の1時間は視覚障害者全般に渡る話題を取り上げる時間として使いたい!
 だが、点字学習が進めば進むほど、その学習に対する好奇心はますます増し、めいっぱいそれに時間を取られてしまう。
また、点訳のルールがときとして変わることがある。そうなると、余計に学習にかける時間が増える。
 こちらは何とか話題提供の時間を持とうとするが、なかなかその隙を与えてくれない。
 やっぱり晴眼者のボランティアというのは私が考えるボランティア感とは違うのだ!と古手のメンバーに、その頃よく愚痴ったものである。
 それでも、しばらくして中途失明者のTさんが例会に加わり彼女の体験談などを話してもらう時間などを設ける中で、多少はそうした目的を果たせる時間枠を作れるようになってきた。
 この機会を逃してはと、毎月1回「ゲストコーナー」というのを企画し、関係者を例会に招き(といっても無料で)、お話を伺うことにした。
 まずは、ライトハウスの各部署から職員に出向いてもらうことから始まり、福祉機器を扱う業者、障害福祉課の職員、聴覚障害ボランティア、盲導犬や車椅子使用者など。我々が声かけの及ぶ範囲でいろんな人からお話を聞くことができた。
 このコーナー、1時間はゲストにお話してもらって、後の1時間を質疑応答に当てたが、会が進むにしたがって会員の意識も高まり、質問の中にもかなり辛辣な、的を得すぎるのではないかと私が感じてしまうような場面さえあった。
 しかし、教室に出向いて来るメンバーの目的は、やはり「点字を覚えたい」「点訳活動がしたい」という思いであって、それをいくら「目的はそうでは無い」とこちらで談じたところで、「そうそう洗脳されるものではありませんよ」とベテランボランティアから言われたものである。
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2009年06月19日

盲福研の歩み その5 「点字教室」

 「障害」について、もっと多くの人たちと考え会い・一緒に行動できる仲間を増やしていきたい。
 そうした思いの中から考え出したのが「点字教室」。視覚障害者と点字というのは一般市民の人にとっては最も分かりやすい接点。
 そのころ、点字の学習は施設が点訳者を養成するために独自で行っていたり、ボランティアグループが通信学習として取り組んでいる所はあったが、一般の人に直接点字講習をしているという所はなかった。

 1971年の春。
、「毎水曜日の午後6時から8時まで、ライトハウスにおいて点字を教えます」という内容で募集にかかった。しかし、なかなか希望者か現れない。気にしつつ日が流れる中、自宅に「点字を教えてもらいたいのですが」と30代の男性が訪問してきた。 「きたあ!」と、喜び勇んで点字版を持ち出して1時間近く概要について説明したことを思い出す。
 この受講者第1号のNさん、点字学習の受講者としても熱心であったが、教室が終わってから、私の自宅までよく車で送ってもらったものである。
 その車中いろいろ話をしたが、「点字講習会も行政のバックアップも得てもっと広く市民に呼びかけていけたら良いなあ」という私の思いに同感され、「それなら、私の知り合いの市会議員がいるから紹介する」と言われ、数日後、そのお宅に一緒に出向くことになった。
 座敷に通されて「どういうことですか?」と切り出されても、当時はなかなか順序立てて話を組み立てることはできなかったし、理解してもらえたかどうかは疑問である。
 しかし、我々が訪問したことが直接の要因になったのではないにしても、それからまもなく、施設や当事者団体への委託事業として、市の点訳講習会が開催されるようになった。
 点字教室は、近くのB大の学生などを含め、毎週一人や二人の新人が訪れるようになった。 点字を教えだして、今までの自分の点字は何といい加減なものであったかをまず思い知った。 確かに「点字使用者」ではあったが、だからといって正確な点字が書けた訳ではない。一応「教える」という立場になって自分自身点字の初歩から勉強するようになった。
 点字は表音文字であり、かなの羅列であって、その切れ続きで日本語としての意味合いを持たせるようになっている。文法的なルールによって文節を分けるようになっている。これが教える側・受講する側にとっても一つの興味となっている。
 1年間を経て教室を訪れる人は50人を越えるまでになった。しかし、一度だけ来て顔を出さなくなる人。50音は覚えたが、さてこれから文章書きのルールを教えだそうとしたときに足が遠ざかってしまう人、など新陳代謝も激しかった。
 2年・3年経つ内に自分なりに点字についての知識、教える手順というのもちょっと分かりだし、先輩となった受講者の中にも指導できる人も幾人か現れて、教室は常に30人を越えて部屋がいっぱいになるにぎわいとなってきた。
posted by よろてん at 22:10| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

盲福研の歩み その4 「ひまあるかい」

 ボランティアのことや施設の運営など、それこそ研究会の名前さながらの理屈が先行する集まりの中、「もっとフランクに見える・見えないを越えて人と人とのふれ合いを増やしていける時間も作っていかねばならないのではないか」との思いがあり、そうした場の設定を企画していこうということになった。
 前にも書いたが、ハイキングなどのレクは奉仕団の友の会が主催して視覚障害者を招待するという形式で年数度開催されていた。
 それを我々は企画段階から一緒にやっていこうということでスタートした。まず、ネーミング。盲福研主催というのではいかにも堅い。こうした遊びの場では違った呼び名でやっていきたいが何かないか?
そこで出てきたのが「暇があったら出て来ない!」と呼びかける「ひまあるかい」。
 この「ひまあるかい」、スタートしてから何年かは毎月いろいろな企画を立てて出かけた。当時は視覚障害者のレクリエーションの内容・数ともに多くなかったことや、気楽にお互いが関わり合えることなどもあって、毎回30から50人の参加があった。
 春には北山へのハイキング、イチゴ狩り、盲人野球など。秋には、ボウリングや柿や葡萄などのくだものがりなど。夏には、Jくんの力添えもあって琵琶湖畔でキャンプも毎年した。キャンプファイヤーを囲んで歌にゲームに楽しんだときは「こんなことも一緒にできるようになったのだ」と感動したものだった。冬には、盲人卓球やスケートもした。
 特に視覚障害者だからといってサポートする側に事前に学習会をした訳でもなく、最小限の心配りについてオリエンテーションをした程度だったが、双方がそれなりの緊張感を持ちつつも楽しい時間を共有しあった。
 しかし、こういうときもあった。秋に飯ごう炊さんの計画があったが、晴眼者数名だけで下見に出かけていたことが分かったときには猛然と彼らに意義を唱えた。 「ひまあるかい」の趣旨が本当に分かっているのかと。そして、視覚障害者当事者の数名で「やっぱり現実には一体というのは難しいのだろうか?」と語り合ったものである。
 お料理教室をしたこともある。その中で、海苔巻きを晴眼者が切ってしまったことに、反省会のときに視覚障害者の方から「自分たちのできることまで取り上げないで欲しい」というクレームがついたことがある。それまで視覚障害者と接したことのない人にとっては包丁を使うような作業については見える者が変わってするのが「親切」と思っていたのだろう。
 手厳しい指摘を受けて晴眼者の方もたじろいだようである。しかし、こうした直接的なやり取りはこれまでにはおそらく無かったことだろう。見える・見えないというのがどういうことなのか?「ひまあるかい」の集まりの中で、実体験を通してお互い理解しあえた場面が幾つもあったことだろう。
posted by よろてん at 17:11| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月09日

盲福研の歩み その3 「視覚障害者福祉センターについて」

 次に我々が考えたのは「視覚障害者福祉センター」の運営の有るべき姿を施設職員と視覚障害者当事者それにボランティアも加わって、より良いセンター作りを考えていくような集まりが持てないかということであった。
 他のライトハウスの実体はどのようなものであるのか、まず、それを知るために私と同じ青年部のKくんとAさんの3人で名古屋へ出かけた。
 点字図書館長であったIさんにお会いして、点字図書館のこと、奉仕団のこと、盲人協会との協力関係などについてお話を伺った。
 いろいろ刺激を受ける内容もあったが、そのことよりも名古屋ライトハウスが出版していた「やまびこ」という月刊誌に興味を引かれ、Kくんなどは帰りの汽車の中ずっとその点字物に指を走らせていた。というのも、この雑誌は週刊誌から記事を抜粋したもので当時としてはかなり柔らかな性の問題や芸能関係の記事を満載していた。
 当時、点訳に携わってくださるボランティアは奥様族が多く、やはり正当な文学書を手がけられることがほとんどで、違ったニーズを見出して積極的に取り組んでおられる名古屋の取り組みに共感したものだった。
 数ヶ月後、今度はSさんら7名で大阪のライトハウスに出かけた。ここでも職員とボランティアの関係などについていろいろ伺うことができた。
 視覚障害者にとって従来の3療(鍼・灸・あんま)に加えて新職業として電話交換手などの職業訓練の実践の場を見学させてもらうこともできた。
 その後、地元で当事者・施設職員・ボランティアが集まって「福祉センターを考える」という集会を数回持ったような記録はあるが、その話し合いの具体的な内容まで記載されておらず、記憶にも残っていない。
 ただ、このころは施設職員の数も少なく、世代的にも若い人が多かったことから比較的自由に意見交換ができる雰囲気があった。
 このころの福祉における流行言葉を引用するならば、 「of the」(障害者の)、「for the」(障害者のための)でもなく、「with」な意識とスタンスで福祉を考えていける、そんな施設運営があるべきだと盲福研として主調していた。
posted by よろてん at 22:30| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月05日

盲福研の歩み その2「晴・盲一体」

 青年部の研修会を終えて、帰路の汽車の中の数時間。
 視覚障害者と晴眼者が対等な関係で活動できるグループ作りができないものか。発足するとすれば具体的にどのような人たちにまず声かけしていったら仲間に入ってもらえるだろうか?などの話を数人で熱く語り合っている内に下車駅に着いた。
 青年部から数名、既存のボランティアグループから数名、我々が声かけした人達が市内の喫茶店に集まった。
 複数の視覚障害者と晴眼者が、このようにフリーな立場で施設を離れて集まるということは従来あまり見られなかったと思う。みんなが談笑しながら囲むテーブルの上に誰かが買ってきたあつあつの焼き芋が差し入れられていたことを今も記憶している。
 こうした集まりを数回持つ中で、「今年のライトハウスのクリスマス会は我々で企画してみようではないか」ということになった。
そこで、早速ライトハウスと、これまで主催の中心適役割を果たして来られた友の会の代表者に、その意向を申し出た。ライトハウスの方は「やってみたら!」という感触で、「こちらとしても支援するよ」という言葉はもらえなかった。
 私とAさんの対面朗読の時間は、それから2ヶ月ほど。学習のための本は机の片隅に置かれ、もっぱらクリスマス会の企画会議に埋まった。何としても成功させなければならない!
 クリスマスの会当日は我々が呼びかけたボランティアグループの人たちの参加もあって会場はいっぱいになった。
 ライトハウス主事からは「青年部とボランティアで企画したクリスマス会です」という紹介があったが、「青年部としてやる訳ではない!」と心の中で叫んでいた。
 それまで多くの人が集まっている前で話をするということなど経験したこともないし得意でもなかった。
 それが今回行きがかり上もあるが、私とAさんが司会役となった。他のスタッフのサポートにも助けられ無事宴を修了したときには何ともいえぬ達成感があった。この集まりにNグループの数名が参加していた。
 片づけをしながら我々が考えているグループ作りの話をしたところ、彼らもぜひ一緒に関わっていきたいと心強い反応が返ってきた。
なかでも、Sさんの社会の中の障害者への見方は、私のこれまで見えていなかった視点にたっての見方も持っておられ、こうした人たちも含めてグループ作りをしていきたいという気持ちはなおのこと強くなった。
 年が変わり、昨夏出会ったJくんにも声をかけてグループ作りの準備会をもった。
我々のグループは、晴眼者と盲人が対等な関係で仲間となり、「障害」というものに向かい合い、考え合う・行動していく、ということから、スローガンを「晴・盲一体」とした。
そして、会の名前を京都盲人福祉研究会と、なんとも厳めしい名をつけたものである。
メンバーとしては視覚障害者・晴眼者合わせて10数名の少数で出発した。
 活動の手始めは「ボランティア活動につにて」というアンケート調査を実施した。調査票作り、当時はガリ版印刷。しかし、こうした手作業を力を合わせてやるということが、これまでは別のグループで活動していた者同士の仲間意識を高める良い機会ともなった。
 返ってきた600近い回答を手分けして整理・分析して、数ヶ月後にようやくまとまったものを叩き台にして「ボランティアのあり方」という集会をもった。
 参加者はD大学やN女子大の点訳サークル、私の勤務する病院の看護学生で作る点訳サークル「白百合会」も参加していた。他に長年に渡って施設の奉仕活動をされている方も数名。
 その内容は「与える側」と「与えられる側」という一報通行的な奉仕活動に徹していて良いのか?という我々の考え方を前面に出して、これまでの奉仕活動を批判するような雰囲気があったように思われる。
 今でも印象に残っているのは、施設で熱心に活動され、この集会にも参加してくださった人が、「出て来る所を間違えた」と堅い表情で退出されたことだ。
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2009年06月02日

盲福研の歩み その1 「会発足に向かう動機」

 今のユニーズの前身京都盲人福祉研究会(盲福研)が発足して来年で40年になる。
 私が社会へ出て数年後。それから職場と並行して続いている活動である。
 そろそろ何事についても「まとめ」をしておかねばならぬ岐路にさしかかっている。
 この活動についても、その辿ってきた道筋を今一度振り返ってみることにした。
 当時、日本でもようやくリハビリテーションという考え方が医療の中にも取り入れられ、整形外科が主な対象であったが、治療するだけでなく、社会復帰に結びつけていけるアプローチが求められるようになってきた。
 私も院内で理学療法士という立場で患者さんと向かい合っていた。
 歩行困難だった人が足に筋力を付け杖を使って自由に移動できるようになり、退院される。それから幾日かを経て外来へ来られたとき、「どうですか?」と訊ねてみると「外へは出ていない」と言われる。
 こうしたケースの場合、ご本人が以前とは違った姿を知り合いに見せたくないというようなこともあるが、家族の人が「杖を使ってまで外出しないでくれ。恥ずかしいし危ない」と停止がかかる場合もあると聴いた。
 その人をどれだけ励まし機能的にも向上させる手伝いをしても、個人や社会の「正常でなくなったらお終い!」という価値観が変わらないかぎり、真のリハビリはないし、我々のアプローチも無為に終わってしまうのではないかと考えた。
 そうした思いもあって、通信大学で福祉や障害について角度を変えて学んでみることにしたのもこのころである。
 同時期、視覚障害者の当事者団体である盲人協会(今の視覚障害者協会)の青年部の役員をしていた。
 見えないがゆえに職業選択の自由がない問題、教育や生活場面においてもバリアの多い実体など。それらをどう打破していかねばならないかを若い仲間同士盛んに話し合ったものである。
 その夏、隣県で全国の盲青年大会が開催され我々も協力スタッフとして参加した。
キャンプファイヤーを囲んで参加者一同、歌い踊ったものである。
 この企画の手伝いをしてくれたYMCAのJくんと、その夜、1奉仕者というよりも同じ若者として話が弾んだ。
 同年輩の若者同士であっても、見える者と見えない者の間には「サービスをする人」と「サービスを受ける人」という立場があり、どうしても取り去れない垣根が存在している。そんなことを常々感じていただけに彼との出会いは一つのきっかけ作りとなった。
 理学療法士として仕事をしていくための点字の参考書はほとんど無いに近く、通信大学の教科書もしかり。
 そこでライトハウスに週2回の対面朗読ボランティアの依頼をしていた。
 対面朗読とは、毎週決まった時間に、利用者とボランティらがライトハウスで、視覚障害者が読んで欲しい本を持ち込んで、それを読んでもらいながら必要箇所に応じて点字で移し書きしたりテープ録音したり斜め読みしてもらったりする。
 私の持ち込んだ本が医学関係のもので日頃使わない漢字などが諸処に出て来て、その文字調べで朗読事態は思ったほど進まなかった。
2時間の後半はお互いちょっと疲れ気味で本をおいておしゃべりすることが多くなった。ここでも先のJくん同様、聞き手と読み手の立場を離れて「ボランティア」などについて、それぞれの考えを話し合うことが多くなった。
 この話し合いの中で読み手のAさんに「この秋、青年部で泊まり込みで研修会があるのだけれど、もし良かったらお友達と一緒に参加してみませんか?」と誘ってみた。
 視覚障害者のことについても興味をもっていたAさん、その申し出を承諾した。
 ところがライトハウスの職員から「内のボランティアをかってに引っぱり出してもらっては困る!」ときつい反応が返ってきた。
 この場合、我々としては、1青年部員がAさんという個人を誘ったという意識だったが、役員をしている私が奉仕団の一人であるAさんにボランティアをお願いするということと受け取られ、道理を通していないということで反発をくらった。
 こうしたすれ違いが以後の活動でも幾たびか生じている。これは大局的に考えれば私の足らざる所となっており、今日的課題ともなっている。
 しかし、当時の我々の思いとしては、個人と個人のやり取りにどうして枠組みをはめようとするのか、と苛立ったものである。

posted by よろてん at 23:41| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする