2009年05月21日

ベッドサイドに立って その9 「ありがとう!おかあさん」

 病室に入ると、何か悲しそうな顔をしているという。
 額に手をやると皮膚が上下に微かに動くのが分かる。
 母の意識が微かでも残っている間に言っておきたかった「ありがとう!」を耳元で声に出す。しかし、この言葉を口にしたら、きっとこうなってしまうだろうな、と心の中で思っていたことが現実となる。なさけなくも、涙があふれ出し、大声を出して泣いてしまう。
 母の一生の中で私にかけた心配がどれほど多かったか!良きにつけ悪きにつけ、私を精一杯フォローしてきてくれた時間の流れ。
そうした想いと、これまでのいろんな場面が、一気に駆け上がってくる。
 翌日、昨日からみると呼吸の状態が早く、痰も貯まり辛そうである。
 次の日。血圧も低下しており透析はできない。
 夕方、いよいよ来るべき時が近づいてきたようだが、今しばらくは大丈夫ということで、一旦帰宅し風呂に入った後再び病院へ向かう。
 午後9時からベッドサイドに腰かけて母の腕を握る。脈波弱いながらに確実に打っている。痰が貯まり苦しかろう!「すみません、痰が貯まってしんどそうなので」とナースコールを何度か押す。夜間でもあり人出は少ない中ではあるが、速やかに吸飲してくれる。吸飲のたびに出血量は増してくる。呼吸の感じもつらくなってくる。心電図の警告音も鳴り出す。
 夕方から父は「見ているのが辛い」と自宅へ帰っている。「ご主人に連絡されますか?」との声かけもあったが、最後は我々夫婦で見取ることにする。
 「おかあさん、もうすぐ楽になるよ!」と最後の力をふりしぼっているような母の肩に手をややる。
 ほどなく、呼吸は停止する。午後10時18分、「ご臨終です」と宿直医の事務的な声が届く。
 苦しかった時間からようやく母は解放されたのだという思いが広がる。
 てきぱきと気持ちよく死後の処置をしてくれる看護士の対応に感謝と最後を見取れた一種の満足感が心をおさめてくれた。
 母の心臓はけっして弱くはなかった。母の晩年の入院生活の時間の積み重ねからすると、この生命力の維持は当人にとっては望むところではなかったかもしれないが、最後のがんばりは、何処か生き抜いていかねばならないという何かを訴えているようにさえ感じさせるものがあった。
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2009年05月12日

    ベッドサイドに立って その8 「父のための時間」

 秋になって、母は酸素吸入をする日が多くなってくる。
 こうなってくると、何時何がおこるか分からない日々となる。
 これからの1日1日の積み重ねは、母を見舞うことで生活の支えとなっている父のために、母の生命力がどれほど続いてくれるかということになる。
 以前よりは脈も浅くなり、今までになかった所にも浮腫が目立ってくる。
 口を半開きにしてやっている呼吸が、こちらに何か言おうとして伝えきれない。もどかしさのようにも見えてしまう。
 10月になって、IVH(高カロリー輸液)を使い出す。
 父はベットサイドに立っても母の衰弱状態をみて声もなく立ちつくすことが多くなる。
 12月になり、意識朦朧状態が続いているが、どうしたときか、ちょっと笑い声を出した時がある。こちらがいったことに反応して声を出したのかどうかは分からないが、それでもちょっとほっとする時間である。

 年が変わる。
病室に入り声をかけると、「ああ」と言い目を開ける。声の調子から痰が貯まっている様子が伺われる。
 「おかあさん」と母の耳元で呼びかけると、隣のベッドの患者さんが「おかあちゃん」と大きな声で呼び続ける。
 こうした状態の中で、今、私は母にどう向かい合い手をさしのべるのが良いのか?それが見えないもどかしさがある。
 2月。病室へ向かう階段半ばで院長と出会う。「血圧も下降しており、透析も半ばで中止した。お父さんにも言ったが、これ以上の処置はせず自然の状態で見守りたい」と、死の宣告間近であることを告げる言葉としては、あまりにたんたんとした重みを感じない声かけであるように家族としては受け取った。
 母の手を取る。布団の中にあることもあろうが暖かい。小さくなった顔や腕に触れながら「いよいよか」と思うと寂しさが…。
posted by よろてん at 22:17| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ベッドサイドに立って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月09日

     ベッドサイドに立って その7 (最後の季節)

 春。母の入院先の病院は大通りに面した新しい建物へ移転。
 母のベッドも窓際の明るい場所になる。窓からは鳩が舞うのが見える。
 食欲はあるようで、「スコップみたいなスプーンやなあ」と言いながら保温配膳車から出された暖かな豆腐を口に運んでいる。
 ここには、一応リハビリ室のような所もあり、平行棒もあるので車椅子に乗せて立たせてみようと試みるが足が立たない。
 週3回風呂に入れてもらっているということだが、こんな足腰の者を支えて入浴させるのも大変だろうな、と思う。
 母の学生時代からの親友からの手紙が届くが、これをしっかり読む。
 初夏。最近は元気でいつの間にかお粥から後ご飯に変わっている。しかし、それも毎週覗くごとにころころ状態が変わるようになってくる。
 母にとっては結果的に最後の誕生日の日となる。サクランボを持っていったが、カリウム制限ということで3粒ほど口に入れる。
 夏。脳血管障害が発生したらしく言語も定かでなくなってくる。
 病室に入り、「こんにちは」と声をかけると「こんにちは」と一応言葉を返すが、これは自発的というよりも単に復唱しているというだけ。
 手を握らせても指が十分に曲がりきらない。「まがらへん」という言葉を何度も繰り返す。これも一つの症状。
 認知症が進みかけているのだろう。会話として成立しにくくなってきた。
 この状態を受け入れていかねばならないのだろう。今まで握り合った手と手の感触にも力がなくなってきた。その握力の無さよりも、互いの意思の疎通を取り合えなくなってきた空しさを、手の感触の中にも感じてしまう。
 退出するとき、何度か「そしたらさいなら」と声をかけると「さいなら」と一応言葉は返ってくるが、これもオウム返しにすぎないのだろうか?
 秋。意識レベルが下がってきて、こちらから声をかけても反応がないときが多くなる。院長によると「それでも3日に1回くらいは自力で食事をされるときがある」とのこと。
 透析のあった日でも浮腫が目立つ日が増える。痰が貯まることが気になる。急な事態というのが痰が貯まって呼吸困難になるということも想定される。
posted by よろてん at 21:53| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | ベッドサイドに立って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月07日

ベッドサイドに立って その6 (追わねばならない負担)

 母の日も近く、久しぶりに母の記録に戻る。
 年が変わって正月休み。
 ベッド再度に立つと「おめでとう」と母の方から声がかかる。自発的に声をかけてくるのは久しぶり。
 ガスが出そうだというので、トイレに誘導しかけるが、個室が狭く介助者がうまく入ることができないので見合わせる。廊下で以前同室者であった人にあって「また覗きに来てや」とお愛想の言葉さえ出る。
 ミキサー食から刻み食へ変えてもらったというだけあって、棒鱈やカステラなど「卑しくなってなあ」などと言いつつ口に運んでいる。
 1月であることは分かっているようだが、今日が何日であるかまでは分からない。見舞いに誰かが来てくれたことは何となく分かっているようだが、それが誰であるかは定かでない。
 それでも食欲のせいか、「顔つき・目つきはしっかりしている」と父は満足そうである。
 同室に新入室者があり、職員が「パジャマでなく病衣を使って欲しい」と言っている声が聞こえる。
 近頃母も寒い・寒いを連発するが、裾のはだける着物を着せられている。おむつを換えるのに容易なように、こうした病衣を使っているのだろうが、まさに「スル側の論理」で、患者に苦痛を与えている。
 1月も終わりのころ。「餅が食べたい!」と口ぐせのようにいっている母に、ワラビ餅を持っていくが、それを口にしながらも「やっぱりほんまもんの餅がええなあ」と言う。
 ペンを持たせて「何か書いてみたら」と促しつつも、また余計なことを書かれても困ると考え、「東風ふかば…」と書くようにいったら、案外しっかり書き留めたようだ。
 テレビも頭の体操にもなるので透析に出ているような時にみたら!と言ってみるが、「見る気にもならないし、見せてもくれない」と例の不満の一端が出る。
 食事のとき、ベットの上部を起こしてもらって一応自力で食べているようだが、食べ終わるまではベッドを寝かせてくれないので、それが辛く早く箸をおくことになるという。
 職員の動向に合わせて入院生活を送らねばならない所に、抱えている病状以外に追わされている負担があるのだろう。

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2009年02月19日

ベッドサイドに立って その5 院内の孤独

    10月9日
 お天気続き、風邪はあるがぽかぽか陽気。
 母の調子もまずまずで、頸も垂れていないので軽く介助して車椅子から車に乗せて実家へ立ち寄ってみる。ご近所の人と確かな会話とは言えないが、それでも「久しぶりですね」と声をかけられてうなづいている。
 この日、弟夫婦が見舞って昼食の介助をして帰ったようだが、当人はあまりしっかり覚えていない。
 嫁達には感謝をしているようだが、息子たちには良くしてもらっているとは思っていない言葉が諸処に出る。それよりも、連れ合いである父親に対しては何やら誤解をして妬んでいるような言葉が、我々夫婦が見舞いに行く度にでるのは情けない。
 それでも、面と向かっては「おおきに!」と言っているあたり、まだ何処かで惚けきっていない部分がある。

    11月26日
 寒い・寒い!を連発する。
 握る手は暖かいが不整脈がある。
 酸素吸入をする日があるようで、それも時々外れているという。
 腰から膝にかけて痛いという。しばらくなかった不安感が戻ってきたようである。「数日様子をみたらまた元気になるのではないか」と声をかけるが、それで納得しただろうか。

  後日
 体力的に2週間坐位の練習もできぬまま過ぎる。
 近頃の母を見ていると「こんな状態で生き続けるというのもたいへんだなあ」と思わずにはいられない。
 胸が辛いという。不整脈も先日よりも顕著である。「しんどいのに誰も見てくれない」と不安・不満感を募らせる。

  後日、年末
 正月の料理、黒豆やきんとんを口にして「美味しい!」という。「棒鱈みたいな味の濃いものが食べたい、卑しいやろ!」を連発する。
 正月には我々の家に来るか?と誘ってみる。しかし、体力的にも無理と思っているのか「行かない」ときっぱりいう。
 大晦日にはじいさんに晦日そばを持って来てもらうそうな。
posted by よろてん at 21:36| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ベッドサイドに立って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月06日

ベッドサイドに立って その4 「現実と妄想の狭間で」

7月9日
 母を見舞う。点滴を終了し、口から食物を取るようになるが、食欲無く、脈も弱く意識レベルも低い。現実の世界半分、妄想の世界半分という感じである。
全体的にだるいと言う。   
  後日。
応答する声はけっこう大きい。背中を支えながら50数える間ベッドに腰かけるようにする。「ここは何処や、浜辺か?」と分からぬことをいう。この状態では車椅子に乗せて移動するのは難しいかもしれない。
 「話する人もないし」という。体の自由が利かないところへ会話をする人もないとなれば、それこそ横たわっているだけの存在になって空しいことだろう。
 かつては俳句をしていて、先生から名前も授かったと、自分なりに自由だった時を想い出して泣き出す。
  後日。
病院に取り残されている虚しさが募っているようで、毛布をかぶり「白装束を横に置いておいて欲しい」などと言う。
 ちょっとはっきりしている時は「人間扱いしてもらっていない」などとも言う。
 手を握るように言うとけっこうしっかり握る。これなら自力でご飯が食べられそうなくらい。

9月27日(土曜日)
 「寒い」としきりに言い、沢山着込んでいる。3時半をさしている時計を見せるがはっきり何時と言えない。「今昼か!」を何度も繰り返す。
 少し前までは腰が痛いなど言っていたが、最近はあまり訴えない。
 「手提げカバン、置いておいて」と目につくものへの関心は残っている。
  数日後。
 先日、車椅子に乗せて病院の表まで出たが、そのさい前の同室者の患者に合ったが、その人の名前を覚えていた。
 ハンカチを四つ織りにしてくれないか、柿とリンゴはどのように違う?などの動作や頭の体操をするが、それなりに処理する。


posted by よろてん at 20:43| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ベッドサイドに立って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月23日

ベッドサイドに立って その3 「食欲はやや戻ったのに」

5月17日
 数日前から食事が進まないことから点滴による栄養補給も始まったようだ。。
 車椅子に乗せて廊下へ出てみる。職員の目が気になっているのだろう。「看護婦さんに見てもらえて良かった」という。
 後日、父から電話。「もう末期症状やなあ、支離滅裂なことばかり言うし、食欲も無いし」と、実状は定かでないが、父のベッドサイドで困り果てている姿が思い浮かぶ。

 後日,ベッドサイドに立って、「私誰か分かるか?」と問うてみるがはっきりしない。
「お母さんの名前は?」と聴くと、「何の何」と、今日はしっかり自分の名はいう。
 前開きシャツを着るように促すがほとんど介助が必要な状態。
 こんな状態の中、レントゲンや胃カメラ・大腸の透視の指示が出ているとか。
 この状況の中でそこまでの精密検査が果たして本人のために必要なのかどうか?はなはだ疑問である。むしろ、弱っている体には相当な負担になるであろうことを心配する。傍で見守る父の背も小さくなっている。

5月28日
 今日は元気そうで、「何年生まれや」の問いにきちんと答える。父が持ってきた紅葉饅頭も一つ食べたそうな。
 座らせると「痛いなあ、もう長くはないのやからええは」というが頭は上がっている。
「何が食べたい?」と聞いてみると「鯖寿司」としっかりいう。
職員に車椅子に乗せてもらって食事をとっているときもあるとのことで、そうした介助をしてもらえると少しでもしっかりするのではないかと有り難い。

 後日,点滴の一定の効果もあるのか、ここ数日意識もはっきりしており、「刺身が食べたい」などということもある。
 そんなある日、父から「輸血をしてもらっている」との電話がある。病院へ出向き医者から説明してもらう。「浣腸をしたさい直腸から出血した。狭心症などをおこしてもいけないので輸血した」という。大腸から出血してもいけないので絶食にし点滴のみで栄養補給をしばらくするという。透析をすると粘膜も弱る。父は「命には別状ないか」と心配しているが、このまま出血が長く続くようであれば楽観はできない。


posted by よろてん at 22:34| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ベッドサイドに立って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月20日

ベッドサイドに立って  その2 日常生活からの遊離

 母から返って来る言葉は舌の回りも定かでなく痴呆ぽくなっている。
 それでも、背を支えながら腕を前に伸ばさせ、声をかけながら指の屈伸運動などを数分間していると、ちょっと言葉も明瞭になってくる。
 自分のベット周囲に置いてあるものを気にする。日頃「あまり物を置かないように」と職員から言われているので、そのことが頭に残っているのだろう。
4月31日
 ベッドに近づくと、「死にぞこのおたは!」という。
 「手を握ってみて」と握手してみると5kgくらいの力。持って来た写真を見せながら10分ほど座る。
 プリンを食べるスプーンの動きなどを見ていても数週間前のものではない。この調子だと食事をとるのも大変だろうなあと思う。
 それでも、我々が帰るときには来た時よりははっきりした言葉で見送ってくれる。
5月7日
 言葉もはっきりせず、その内容も意味不明。
 ぶよぶよしている体を起こす。ほとんど自力で坐位を保つことはできない。「頭を上げて!」と声をかけるが、すぐに垂れてしまう。 
「今日は何月何日」と訊ねても答えられない。「今日は5月なのか」と反芻させるが数分後に聞いてみても思い出せない。
 こうした状態で生きながらえていくことも完全に惚けていない状態とすれば辛かろうと思う。
 「今度来たときは元気な声で出迎えて」と頼んでみるのがいっぱいで、とても「もっとしっかりしなければ」などと安易な励ましの言葉は出ない。
 周囲の者の「大丈夫ですよ、がんばりましょう!」などの声かけは空しく聞こえる。
 この部屋に移ってからの意識レベルの低下は顕著である。食事も一人では摂れなくなり、父が自宅から自転車で日に2度母の食事介助に通っている。この父も高齢でもあり自転車で通うことが心配でもある。
 次に見舞ったときに、「今の盲導犬の名前知ってるかなあ」と訊ねてみると「幸福やったかな」という。
 ユニスの前の盲導犬はハピネスといった。この「ハピネス」という名前が意識の何処かにあったのだろう。
 母との会話を通して、現実の生活場面と接点を失いつつある母の実体を感じざるをえな
posted by よろてん at 21:27| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ベッドサイドに立って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月16日

ベッドサイドに立って その1 「会話の無い世界」

 私の母が亡くなって、この2月で10年になる。
 亡くなるまでの数年間透析治療をする必要もあって病院のベッドの上で過ごした。
 毎週水曜日の夜は盲福研(現ユニーズ)の例会がありライトハウスへ出向いていたが、出向く途中、何時も母の入院先へ立ち寄った。
 その際の見舞った都度の記録が残っている。
 亡くなるまでの2年間を辿り、今一度家族の目で、老人介護病院の医療スタッフの一員であった者の目で「介護」そして「終末ケア」について考えてみたい。
 このころからパソコンを使って音声による文字入力をするようになり、それまで紙打ちで書いていた日記もおぼつかぬキー操作で入力しかけていたようだが、何度かパソコンのトラブルがあったりして数年間の日記を失ってしまい、母の記録についても、何時入院したのかは定かでなく、既に入院している状態の時のものからしか残っていない。

3月19日
 最近、病院の方からテレビの置き場所について考えて欲しい、と言われている、と父母から聴いていた。オーバーテーブルの上にテレビを置いて見ていたのだが、これは処置をしたり配膳のさいの妨げになるという。床頭台の上に置いたらと言われているようだが、これでは高すぎて見ることはできないという。
 今日、立ち寄ると「テレビは持って帰ってもらうことにした」という。ラジオでも聴けばどうだ、というが、電波が入りにくいし、ダイアルを回してうまく周波数を合わすことも面倒だという。
 外的刺激が少なくなりつつある環境下にあって、せめてテレビを見、世の中の流れもそれとなく見聞きしていることで社会との接点を保つ一助となりえているのではないかと考えていただけに、楽しみをまた一つ奪うとともに、認知症を早めることに繋がるのではないか。
 ただ、ベッド周辺が狭いので歩行器も何とかならないかとの病院からの打診には、「手近で必要な物を取る荷物入れとして、靴下をはくさいの足台として置いておいて欲しい」と、母が強く訴えたため、今日のところは持ち帰るのを見合わせる。

3月26日
 ナースステーションに立ち寄ると「今日お部屋を変わってもらいました」と言う。
 このところ、 一人でポータブル便器に乗り移ることが難しくなり、おむつ交換をしてもらうようになっていた。移った部屋はいわゆる「おむつ部屋」。その病室の人全ておつむ替えを必要とする人たちである。
 母は、「こんな部屋に入れられて格下げになった」と、納得したふうではなく不足そうである。
 ちょうど夕食時、周囲の患者さんもベットの上部を起こしてもらい(ギャジアップ)介助してもらっての食事が始まるところであったが、あまり声は聞こえて来ない。この部屋では隣のベッド
の人と声をかけ合うということもなさそうで、それこそ「寝てるしかない」という世界が拡がりそうである。

4月2日
 でットサイドに立って声をかける。居眠っていたこともあってかぼんやりとしている。介助してベッドの縁に座らせてみるが、5分もしない内に「横になる」とい言う。仰向けになっても自分で枕まで体を引き上げていくこともままならぬようだ。
 夕食もギャジアップしてもらってオーバーテーブルの上に置かれた食器に何とか手を伸ばしているが、これとて見守りなしでは十分食べられそうにない。
posted by よろてん at 11:49| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ベッドサイドに立って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする