2009年07月28日

    ボランティア入門講座に関わって  

「サバンナの風」さん こんにちは!ブログへのコメントありがとうございます。

 7月24日は、ひとまち交流館でボランティア入門講座のある日。
 この入門講座では、既存3グループがボランティアを志す受講者に活動紹介などをすることになっており、今回はユニーズもその1グループとして参加した。
 6時半からということで6時過ぎには会場へ着いておこうとの思いで車で自宅を出た。ところが丸太町に近づくころから信号で止まる車の列が増えだした。最初は退社時間とも関係しているのかと思っていたが、それにしてはあまりに動きが鈍い。御池の信号を遙か前に見て時計は6時になりかけている。だめだ!四条通りを通り抜けるころには6時半を回っていた。ここで初めて気がついた。
 今日は祇園祭りの「後の祭り」というイベントの日。気がついたころにはそれこそ「後の祭り」である。
 焦る気をユニスとともに会場へ急ぐ。会場ではボランティアガイダンスということで話がまだ続いていた。途中からの話で骨子はよく分からなかったが、有償・無償、関わる気持ちの持ち方などによりボランティアと位置づけるかどうかの判断が決まるような内容で、これは初めから聴いておけば、疑問点など問えたのではないかとも感じた。
 その後の時間、各グループの紹介の時間に当てられたが、限られた時間枠の中で、どれほど各グループの特性を把握してもらえたことか?
 ボランティアを志す人にとっていろんな活動が有ることを知ってもらうのは一つかもしれないが、せっかく与えられた時間、説明するグループ側も受け止める受講者側も上滑りな内容に終わってしまわないかと感じた。
 各グループ活動紹介10分ずつの中で、「ユニーズ」としては点字メニューのことやアイヘルパーのことを話したのがが、受講者のお一人「サバンナの風」さんからブログにコメントがあった。
 その後、各ブースに別れて個々の受講者にアプローチしたが、当会では点字を知ってもらう一助として50音表を手がかりにご自分の名前を書いてもらって私が実際に指で読んで「何々さんですね」 「そうです!」というやり取りをしたり、アイマスクをかけてもらって一時ではあるが見えないことの疑似体験と腕を持ってもらって誘導することの実際を体験してもらった。
 さて、この入門講座であるが、市民新聞でも紹介されており、本会も関われたらと思っていた。しかし、実際に関わってみると予想していたほどの効果が果たして得られるのかという疑問が準備会の段階で見え隠れした。
 当日の運営についても考えて欲しい点が幾つかある。主催者として受講した人のその後の活動経緯について把握しておられないこと。
主催者側との接点を第一義にされていてアプローチした各グループへの参加を側面から支援するという体制になっていないこと。
 3グループが集まるのであれば相互の情報交換などを通して「ボランティア」というもののあり方や物の見方・考え方を受講者と一緒に考えていこうとする、より参加型の形式が望ましいのではないか。
 それこそがボランティアの語原「志願する人」に結びつくのではないかと思う。

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2009年07月26日

利用者・ボランティアそしてコーディネート その5

 ユニーズ「おこしやす京都」の活動を開始して利用件数60件に近づいた今、全盲者と弱視者の二人で利用申し込みをして来られたさいの受け止め方を会として今一度話し合っておく必要を感じている。
 この話し合いの中から「目の提供」というものがどういうものであるのか?
 一市民・ボランティアとして「できること」は何なのか?
 視覚障害者に対する有るべきサポートというのはどういうものなのか?などを見出していけるかもしれない。
 そして、会としてどのようなスタンスで関わるのか?
 この点についてはきちんと整理しアイヘルパーにも伝えていかねばならない。
 これまでのアイヘルパー養成講座の実施内容は誘導法の実際が主となっていた。
 実際、入洛される視覚障害者を安全に誘導することがまずは基本というところからである。
 その一方で、我々の活動は「目の提供」であって観光案内人ではないとオリエンテーションしてきた。
 しかし、ケースを積み重ねて来る中で、特に、全盲者と弱視者二人で利用される場合、誘導のサポートを依頼されているのだろうか?と考えるようになってきた。
 ユニーズとしては行動の安全を守るために全盲者と弱視者それぞれにアイヘルパーを当てることにしている。これは、全盲者に関わっているアイヘルパーが弱視者の方まで気を向けるには負担も多く、リスクを解除するという意味もあった。
 ところが利用する側では「全盲・弱視の二人だがアイヘルパーは一人で良い」という申し込みをされるケースが幾つもある。
 今回の場合も結局二日とも午後からはアイヘルパー無しで全盲と弱視の二人で行動されたことになる。
 ならば、アイヘルパーに求めたものは何なのか?
 視覚障害者の場合は行動の不自由とともに情報入手の不自由というのが大きな課題である。
 養成講座の回数を追うごとに、「目の提供それは情報提供者になってもらうこと」と伝えるようになってきている。
 弱視者の場合は一人歩きはできる。特に危険な所でなければ常パートナーとなっている全盲者を誘導して歩くこともできるだろう。
 彼らにとって必要なものは情報を提供してくれる「目」なのかもしれない。
 ところで、この情報提供というのがなかなか微妙である。
 正論からいえば、アイヘルパーの目に写るものをタイムリーに言葉として伝えることが望ましい。
 しかし、今アイヘルパーとして活動している人の中にも、地元の者でもあり、京都を案内する一翼を担っても良いのではないかと思う人。
 観光案内人として頼られるのであれば活動していけないと思う人。様々である。
 利用者としては目に写る物を伝えてもらうことプラス観光案内があれば申し分はなかろう。
 私は、観光サポートをして欲しい人は観光専門の人に委ねる方が良いのではないかと考えている。
 ただ、その場合、視覚障害者への誘導の仕方などについての一定の学習は関わる人に必要であろうから、もしそうした方面からの依頼があれば我々が関与するということもできうる。
 全盲者と弱視者のペアが一緒に行動するのを一人のアイヘルパーがサポートする。ご当人たちは「大丈夫」というかもしれない。
 しかし、弱視といっても見え方・行動力は異なっている。客観的にみれば危なつかしい場面に遭遇するかもしれない。
 利用者側のニーズと受け止める我々の立場。それらのいろいろな要素をすり合わせて、これらをどう整合させていけるかが課題である。
posted by よろてん at 22:11| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月23日

利用者・ボランティアそしてコーディネート4

 利用者の指定席分だけを買っていたことからアイヘルパーとは改札口で別れることになったが、そのさいアイヘルパーが駅員に「電車を下車されてからも宜しく!」と依頼したという。また、無事に宿舎に着いたかどうかアイヘルパーが確認したという。
 この報告を聴いて私の独特の神経がまた逆立った。「それって目の提供なんですか?」。こうした挑発的発言が誤解を招きやすくしているのだが、話し合いのメリハリをつけやすい為に、ついついそうした言い方になる。
 駅員の前に利用者を連れていくことまではサポートに当たるが、利用者ができる依頼ごとまで代弁することは考えて欲しい。また、無事に着いたことの報告は当然利用者から有るべきものであって、それもヘルパーがしてしまうということは、ある意味「子供扱い」してしまっていることになるのではないか?
 直接利用者と関わっているアイヘルパーは、その空気の中から「私が変わってしてあげよう!」という気持ちになるのかもしれない。
 穿った見方をすると、障害の有る者は、ある意味幼稚性を残している方が関わる者のサービス精神を満足させることになるとも考えられる。
 私が敢えて「目の提供のみに徹して欲しい」というのは、こうした逆説的な見方をしてもらいたくないためでもある。
 Aさんにとっては「変わりに(自らはそうも思っていないかもしれない)やってもらってありがとう!」と思うかもしれないが、BさんやCさんにとっては、「自分でできる事を何であんたがするのや!」と思ったり、「自分からきちんと連絡を入れようと思っていたのに保護者みたいやなあ」と思う人もあるかもしれない。
 関わった当のアイヘルパーからは「見える・見えないの問題ではなく人としての親切、気配り」でやったこと、と私の神経の逆立てように、むしろ疑問やいらだちを隠さなかった。
 こうしたヘルパー感は障害者感と結びつくのかどうか?
 ユニーズ「元「盲福研)」の初心は障害による「心のバリア」を取り除くことである。
 機能的に、「見えない事」に対するサポートは必要だ。しかし、「見えない人」が「見えている人」のサービス対象になってしまうことは社会的弱者を生む一員ともなりうる。
 しかし、こうした論を例会の場でぶっつけていくまでの空気にはいたっていない。とともに、人間として「もっと大きな視野で考えていけないのか?」と問われれば、それに反論する持ち合わせもない。
posted by よろてん at 21:58| 京都 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月22日

利用者、ボランティアそしてコーディネート その3

 こうした場で利用された個々の事例を取り上げるのはどうかとも思ったが、それぞれの立場で考えてもらったりご意見がいただければと敢えて書き続ける。
 結局、昨夜窓口から利用者に向けて送った確認メールに対する返答はないままに、二日目となり活動に入ることになる。
 アイヘルパーには、きちんと12時に終わって欲しい、と言ってはあるが、最初は「多少延長になっても良いですよ」というアイヘルパーからの反応もあっただけに、さてどう対処してもらえるか?コーディネートする側としては現場に委ねるしかない。
 12時が過ぎてアイヘルパーから「きちんと12時に修了しました」という報告が来たときは、正直私としてはほっとした。
 節度をもって、安易な?感情に流されることなく活動を修了してもらったことに感謝した。
 だが、窓口担当者は「12時まで」と言い切ったものの全盲と弱視の二人をアイヘルパーから切り離してしまったことに「大丈夫だろうか?」と。昨夜、自分が言い切ってしまった言葉をちょっと後悔したようである。
 活動が終わった段階で利用者・アイヘルパー双方から報告書を提出してもらっている。地元へ帰った利用者の方からは早々にお礼のメールが窓口へ届いた。
 今回、かなり振り回された窓口担当も「喜んでいただけて良かった、と、ほっとした様子のメールが私の方へも届いた。
 一方、アイヘルパーからの報告を受けた私の方は、また「えっ!」という思いにさせられた。
 利用者から朝の9時に迎えに来て欲しいとのことで、アイヘルパー二人は定時前に宿舎へ出向いたのだが、利用者の方は「まだチェックアウトする準備ができていない」と、アイヘルパーをロビーで2・30分待たせたようである。
 そして、観光を始めたが、利用者の一人が持っている荷物がやたらと大きく、とても歩きにくそうなので男性アイヘルパーがたまりかねて持ったようだ。例会の場で「その人はラッキーだった。私が担当していたらとても持てない」と女性アイヘルパー。
 ボランティアを待たせ、遅れたことでロッカーに荷物を入れる時間までもなくなり自らが背負えないほどの荷物を持ち歩く。
 とても大人としての振る舞いではない。
「まあ仕方がないのではないですか」と寛容な感想が幾人かのアイヘルパーの口から出たが、私は、この「寛容さ」が素直に受け止めきれない。
 後日、利用者から報告書が送られてきたが、この「待たせたこと」、「荷物を持たせたこと」についての反省の便は一言も見出すことはできなかった。
 私の利用者への干渉に対して、「教育者ではないのだから、そこまで求めることはないのではないか」、「それよりもアイヘルパーである我々は利用者に楽しんでもらえたら良いのだから」という意見の方が多かったように感じる。
 実施概要に、「これこれにはもっと気をつけて出向いて欲しい」などの項目を増やすことが必ずしも良いとは思わないが、こうしたケースに出会うたびに「書き添えておきたい」と思ってしまう自分は何なのだろう。
posted by よろてん at 20:35| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月21日

利用者・ボランティアそしてコーディネート その2

 「おこしやす京都」の実施要項では原則として活動時間は午前8時から夕刻6時としている。しかし、夜行バスで来る人もあり、時間外であれば受け付けないということにはしていない。
 今回の事例がそうであった。
 担当アイヘルパーは7時前に京都駅に出向いた。ということは、かなり早めの朝食をとって自宅を出たことになる。
 実施要項には「昼食を取るさい500円まではアイヘルパー出す」と書いている。
 事前に昼時になれば昼食を取るように利用者にいっていたが、結果的には食堂へ入ることもなく、利用者が冷たい物を口にしたいということで、そうしたお店へ案内したという。
 私は担当アイヘルパーに敢えて聴いてみた。「そのとき、アイヘルパーはどうしたのですか?」、「自費で飲むと言って注文した」という。そして、結果としてはアイヘルパーが昼食を取る時間はなかった。
 朝早くアイヘルパーに出て来てもらって、利用者である自分たちは冷たい物が欲しくてたまらなくなるほどの猛暑。のどの渇き具合、お腹の減り具合。そんなものをアイヘルパーに対しても感じないのだろうか?
昼食代の500円プラスアルファーの負担をすることがきつくて昼食時を外してしまったとしても、最小限「お疲れさまです」と飲み物くらい提供する気持ちがあって良いのではないかと私は思う。
 これはユニーズのメンバーに「それくらいのことはしてくれ!」などと言っているのではない。
 同じ視覚障害者として・人として、それくらいの気持ちは持ち合わせておいて欲しい。
 この昼食の件については二日目も課題を残した。
 最初は、朝のホテルチェックアウトから夕刻の駅までの送りということで二人の利用者に二人のアイヘルパーを調整していた。
 ところが利用者の方から「11時から午後1時までは知り合いと会うのでアイヘルパーは同行してもらわなくて良い」と連絡してきた。
 ここで、またアイヘルパーの変更を考えねばならなくなった。半日ならば活動できるという人を優先的に担当してもらうことにしている。
 会の都合でアイヘルパーを午前・午後とバトンタッチするときは、派遣費は倍かかるが会費で処理している。しかし、今回のような申し出の場合は、派遣費の半額を利用者負担していただかねばならないことを私の考えとして窓口を通して伝えた。
 そうすると、利用者の方から「12時までで良いです」という返答が返ってきた。
 初日の動き、二日目の行動。この二人は移動することにはさほど問題はないのかと考えてしまった。
 ところが、これだけでは済まなかった。
 初日、ホテルにリュックインしてから窓口の方へ「12時までと言っていたが知り合いの都合で午後1時半までアイヘルパーさんにつき合ってもらいたい」と言ってきたという。これには穏やかな窓口担当も「こつんときました、私の独断で申し訳なかったけれど12時までにしてください、と言いました」と報告があった。それで良いと私も思った。
 果たして、の利用者たちはボランティアのことをどのように考えているのだろう?
 残念ながら、その思いは二日目の活動を通してもなおさら強くなった。
posted by よろてん at 21:39| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月20日

 利用者・ボランティアそしてコーディネート その1

 ユニーズ「おこしやす京都」の活動の一つとして毎月例会を持っている。
 ここでは、最近関わった事例を検証し今後の活動の指針としている。
 今回の例会でも、最近の事例を取り上げ、申込書、報告書・担当アイヘルパーからの感想なども踏まえていろんな意見が飛び交った。
 こうした中で、コーディネート役であり、視覚障害者である私の意見に対して「どうして、そこまでナーバスにならなくてはならないのか?あまり突き詰められるとボランティアとしては自由に活動ができなくなる」という声があちこちから聞こえた。
 こうした声は、長年活動を続けている中で、その時々の波長の差はあるにしても、常に私なりに感じ取ってはいた。せっかく波に乗りかけて活動しているボランティアに対して、欲張った期待?をするがあまり、より多くの課題をボランティアに負わせ、それが元でへちゃばってしまわれた苦い経験も幾度か味わっている。
 今回の例会の場でも、「これ以上自己主張すると脱落者を招きかねない」という空気をちょっと感じた。
 ユニーズ「おこしやす京都」の活動において、私がテーマとしているのは「目の提供に徹すること」である。
 この課題の難しさを日を追って感じかけている。
 入洛される視覚障害者の全てが「目の提供」のみを望んでおられる訳ではない。もとより、地元の利を生かしてそれなりの情報提供ができることはやぶさかではない。
 一方で、アイヘルパーとして登録された人の中にも「目の提供」プラスアルファーの人間的ふれ合いをボランティアとしてのモチベーションとして大切にされておられる人もある。
 人間としての優しさを否定するものではないが、それが「障害が有る」ということで、社会の中であるいは一人ひとりの心の何処かで暗黙の承認事項となってしまっては良くないというのが私の考えである。
 総論的にいえば私自身の人生の中でもそうした優しさを容易に受け入れたことで、一時の安楽はあったにせよ、人格形成においてはかならずしもプラス効果となり得なかったことを晩年になってから気づかされている。
 事例をもっと身近なことに引き寄せるならば、バス待ちの長い列。白杖や盲導犬で歩いて来た視覚障害者に対して「ここに入って!」と列の中程に引き込む人がある。ご当人は「ありがたや!」と思い、引き込んだ人も、それなりに納得している。こうした事例は過去ほどには見受けられなくなったかもしれないが、最後尾にきちんとリードしてくれる優しい人は残念ながら増えていない。
 アイヘルパーと利用者(利用者という言葉も適切かどうか考えたくなってきている が)は、「目を提供する側」と「される側」という状態から来る与え手と受け手という次元を越えれば人と人との生身の対等な関係にある。
 今回の事例で私が問題とした一つは利用者の意識である。全盲と弱視の二人で利用した。
 プランは事前に利用者が提出するのだが今回の場合は、その内容が2転・3転した。そのたびに窓口担当や、アイヘルパーを調整する私の方は翻弄され時間を奪われてしまった。また、日程調整をして担当してもらえるようになったアイヘルパーを他の人と変えねばならない事態も生じた。
 活動当日は猛暑である。
 申し込み時は午後2時近くまでアイヘルパーも同行しなければならないので「昼食を取る時間は設けるように」と窓口から利用者に事前に伝えていた。
 これは、以前に午後1時半ころまで昼食も取らず観光巡りをした利用者があり、少なくともアイヘルパーには定時に昼食を取ってもらうようにするというのが心得ではないかとの考えからである。
 ところが指定席を2枚取ったがアイヘルパーの分を買わなかったので、その電車に乗るまでの所で良いという。
 ということは午後1時前ということになり、これなら先に断ったアイヘルパーでも対応できたことになる。
posted by よろてん at 20:48| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月16日

ユニーズ総会

 久しぶりに会場もいっぱいになるほどの参加者を得て総会を開催することができた。
 今回の総会では、活動を継続していけるための運営のあり方を問うていきたかったが、結果的には各論適な話し合いで時間切れとなった。
 点字・拡大文字メニューの活動においては、実質的に「利用者が少ない」ということが点訳する人、外交を担当する者、にとって動機付けとしては弱いものになっており、「点字の市民権」という当初の目的を支えるまでの力にはなりえない現実論的ムードが漂っていた。
 ただ、「使う人が少ないから」という数の論理で結論づけられることについては、もの申さずにはいられなかった。
 また、視覚障害者も飲食店に入って利用するときは、お客であり、消費者であることをお店にしっかり認識させること、という従来からの考えも再度口にすることになる。
こうした考え方は理念?として「分かっているのだけど」と聴き止められるのであるが、本当に視覚障害者を正当な1市民として受け入れようとしているのかどうかは、まだまだ疑問である。
 一つの枠組みの中に違った存在があるとき、それを包含していこうとすると余分なエネルギーが必要となる。一つの異物として片隅に追いやっておくことの方がエネルギーとしてはいらない。
 この違った存在を混ぜ合わせることが真に正当だと思うのであれば、当然、一定の時間とエネルギーは必要となる。
 私が、総会の場で提示したかったのは、個々人が、この理念と現実の狭間をどのように向かい合って問いかけてもらえるか、そして、個々が出した結論に基づいてその力をどう結集し新たな力に結びつけていってもらえるかを検討しあって欲しかった。
 結果としての時間やエネルギーの量ではなくて、その心の向き方に期待を課すかにしていたのであるが、「分かち合う」というものの考え方のために踏み出すところまでにはいたらなかった。
 こうして書いてみると、どこからか空しい空気が流れてくる。数の論理、現実、当事者と非当事者。それらを足場にして、まさに、今の世間そのものである。

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2009年03月09日

小学3年生に対する盲導犬体験学習(2)

 再度教室に戻ってから、今度は白杖を持ち出して歩くところを見せたり、町中で見えない人に出会ったときには「お手伝いしましょうか?」と声をかけてくれるようにお願いした。ときどき、黙って引っ張るようにして連れていってくれる人がいるけれど、それは不安でもあり、あまり気分的にも良くないことも説明した。
 実際に指で点字を読むデモもやってみた。先に担任から教科書の一文を送っておいてもらったので、それを点字に変換してブレイルメモ(点字を読むパソコンのようなもの)を使って読んでみた。予習が足りなかったのか、あまりすらすら読めず「手が冷たいと感覚が鈍くて読みづらいこともある」などと弁解がましい一言も。
 盲導犬を実際に見たことがある人?と訊ねてみると、案外町中で見ている子らが沢山いた。
 音の信号機のことや点字ブロックのことについても多少触れ、「見えない人が歩くときに困るのは自転車や車が歩道に置かれていること」というようなお話で一応終わり、最後にみんなからの質問を受けることにした。

 Q.どんな犬が盲導犬になれるのですか?
 A.1.歩くのに丁度良い背の高さ
  2.危険な場所では、しっかり踏ん張って止まれるほどの体重。
  3.誰からも怖がられることのない優しい顔だち
4.盲導犬になるための訓練など勉強することが好きな犬。
そこで、ラブらトールリトリバー・ゴールデンリトリバーやシェパードが選ばれています。吠えたり・噛んだり・拾い食いをしたり・集中力がなかったりする犬は盲導犬にふさわしくないので、最初からそのような性格の犬は除いています。

Q命令後はどうして英語なのですか?
A.男女共通語ということで使われているようですが、育てられた協会によってもいろいろ違っていて、我々は「うんち・しっこ」などと言って排泄をさせます。

Q.行きたい所へは盲導犬が連れていってくれるのですか?
A.盲導犬を使っている人が四つ角がきたら「ライト」や「ストレート」などの命令を出して目的の場所へいきます。

Q.盲導犬と歩いていて困るときはどんなときですか?
A.飲食店に入ろうとしたときやタクシーに乗ろうとしたときに「犬は困ります」といって、なかなか入れてくれないときです。
補助犬法というのがあって盲導犬は何処へでも行けるようになっているのだけど。

Q.電話はどうしてかけるのですか?
A.持ち合わせている携帯電話を出して「5の点の所に点が打ってあって、それを中心に番号をおします」と、音声で歩数などもでるキーを叩いてみせた。

 質問の手は次から次へと挙がり、「見えなかったらご飯はどうしてたべるのですか?」と、ここでも定番の質問が飛び出した。「家に帰ったら一度目を瞑ってお箸とお茶碗を持って食べて見て!きっと食べられるよ」という回答で時間がきた。

みんなに見送られながら正門をでる。
今日の一こまが子供たちの心になにかを止めてくれたら嬉しい!
posted by よろてん at 20:58| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月07日

小学3年生に対する盲導犬体験学習(1)

 私立の小学3年生160人に対する盲導犬体験学習の要請があった。
 大人に対してなら、幾らでも話したいことが噴出してくるが、子供となると、どれほどの言葉が理解でき、どれほどの時間集中できるか?
 6年生にお話した時も、後で担任から「あの件については子供たちでは理解できなかったかも」という感想をもらっていたので、「さて、どれくらいのことを話すか?」とちょっと思案した。
 予備知識を得るために、数多く小学校へも話に出かけている盲導犬ユーザーのHさんに訊ねてみた。
 また、当日は、ボランティアとして地域の学校で点字学習のお手伝いをしているTさんに助っ人をお願いした。
 160人の生徒を二つに分け、1グループ85分という枠組みでやることになった。
 私鉄の駅に4人の生徒と担当の先生が迎えにきてくれた。「おはようございます、お名前は」と声をかけながら小さな手と握手した。
 学校の位置を教えてもらいながら町中を歩き出した。遠慮がちに「右です」と言っていた声も、ユニスの歩きを見てしだいに「すごい!」と歓声を上げる声に変わっていった。
 「おはようございます、よろしくお願いします」と担任の指示にしたがって声を揃える80人の生徒たちは、まだまだかわいらしい子供たちだ。
 事前に子供たちからの質問内容を送っておいてもらったので、その項目を取り入れながら盲導犬のお仕事、訓練の実際、視覚障害者が不自由していることはどんなことか、などを少しずつ話し、15分ほどたったところで、40人ずつのグループに分かれて一組は教室から出て盲導犬が階段をどのように上がり降りするか、障害物をどのように避けて歩くか、などのデモをした。もう一方のグループは点字の仕組み、家庭にある物の中に点字が書かれている商品があるか、実際にそうした入れ物などをTさんが家から持参して見せた。
 盲導犬のでも。階段を昇るとき、ユニスはセオリどおり1段上の所に前足をかけた。そうしてとんとんとんとリズミカルに上がっていくのも見て「うわー!」とどよめき、今度は下がるとき、しっかりエッジのところで前足を踏ん張るユニスを見て、これも「賢い!」とあちこちから声が上がる。そして、危なげなく降りてくる我々を見て拍手する児童さえいた。
 次に、廊下のあちこちに子供たちに座ってもらい、障害物をユニスがうまくすり抜けて歩くかどうか見てもらった。
 40人学級、4クラスが単位でデモをしたが、それぞれの担任によって子供たちへの指示が違う。具体的に一人ひとりに指示を出す先生、子供たちの自由な動きに任せている先生。先生自身がデモの意味をあまりよく理解していそうにない人。
 屋外にもちょっとでてみた。盲導犬は左側通行をすることを実践で知ったことだろう。私の横にぴたりとついて一緒に歩く子、ユニスの前を歩こうとして叱られている子、後ろから「そこで左です」と10名近くが指示を出す。それはそれは大音響となって「大きすぎて何を言ってるかわからないから、もうちょっと小さい声で言って!」と制止しなければならないことが幾度かあった。
 最後に、ハーネスを外してみんなにちょっとずつユニスに触れてもらう時間を設けた。さっさと撫でにいく子もあれば最後の最後に前にでていく子もあるのではないかと、こうした実習の中で個々の子供たちの動きが頭の中でちょっと気になった。
posted by よろてん at 22:17| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

利用者の経費負担

 ユニーズ「おこしやす京都」の活動の一つとして月例会を持っている
 その月の活動報告などしながら、各アイヘルパーの情報交換の場としている。
 今回の例会では、私の方から「何時も書いてもらっている活動報告の中に、利用者がアイヘルパーのために使う経費を書き込んで欲しい。そのさい、交通費や拝観料などの負担額の考え方として、視障者・ヘルパーともども半額という考え方ではなく、利用者本人は一人分、ヘルパーは無料という見方で計算してもらったら、見えないことから来る経済的な不利益はどれほどあるかがカウントしていける」と提案した。
 これに対して、参加者の中から「それは貴方が視障者だから言える論理であって、現に当事者も含め、障害の有る者が半額というのは社会的通念になっている。それが障害の有る者への社会的なバックアップともなっている」と。
 また、「いくら目のみの提供といっても実際にヘルプする場合は座席を一つ余分に取ってしまうこともあり、一概に言い切れないと思う」との声も出た。
 実は、この話を持ち出したときには、「なるほど!」と単純に受け止めてもらえるかとも思っていた。
 電車に乗るのに220円かかるとして、視障者とヘルパーが二人で乗っても220円となる。
 アイヘルパーと行動した利用者さんに、報告書の中で「一緒に行動した中で、ヘルパーさんに幾らかかりましたか?」という項目を作っている。そうした場合に「電車料金として110円」と書く人が多い。これは、自分もヘルパーも半額ずつになっている、と考えての回答である。
 大人が一人電車に乗るのに通常の料金を払って、その移動を安全なものとする社会的ケアとしてヘルパーを無料とするという考え方の方が自然ではないかと、これは、一貫して私の思いの中にあることである。
 まあ、当事者だからこそ、こうした問題について意見を出せるということはあるだろう。しかし、半額云々の問題について「当事者だから、そうした論理転回もあろう」という発想が私には理解できない。
 障害が有るがゆえに経済的にも不利を負っている者に対する施策としての「半額制度」であろうことは承知している。
 今回の例会の場で論じることはしなかったが、そうした社会的不利を「半額」(子供料金)というような形で何時までも継続することにも問題はあろうかと思う。
 私が当面の課題としてまとめておきたかったのは、一人前料金は払うとして、アイヘルパーに手伝ってもらうことによって、それ以上にかかる経費。これが見えないがゆえにかかる「余分な経費」であり、その額がどれほどになるかを出したかったのである。
 そして、その「余分な経費」を当事者でなく社会的にどう成算していくべきかを社会に問うていきたいと考えている。
posted by よろてん at 22:20| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月04日

音声による情報発信 (2009年に思うこと)

 新春、本年もよろしくお願いします。
 昨年は、20数年前から考えていた入洛する視障者への誘導サポート受け入れの活動にようやく着手することができた。
 問題は「点字メニュー設置」の活動である。
昨年は、5年ぶりに「点字メニュー」の設置店を紹介したガイドブックを発行し、一人でも多くの視障者に利用してもらえるよう働きかけている。
 しかし、数の上からは利用率はきわめて低い。「点字」の市民権を得るための活動として継続していく気持ちはある。しかし、利用者のニーズが高まらないこともあって、活動に協力する会員の志気も量・質両面で高まって来ない。
 「選ぶ自由・楽しさ」を、より多くの人たちに確実に提供できるのは音声による情報である。行ってみたいお店のメニューを出かける前に自宅で「音声メニュー」で聴いておいて、「今日はこれを食べよう!」と心づもりしてから外食を楽しむことができる。
 昨年から関わっている宅配弁当についても同様なことがいえる。
 かつては、テープで聴かねばならなかった音声情報も今では項目を容易に選べるデジタルな形式に変わって来ていることから「メニュー」などについても好きなものを素早く選ぶことができる。
 事前に見ておかねばならないという点や果たしてお店側が店以外で自メニューを公開してくれるかどうかという問題は残る。
 音声による情報発信となれば、インターネットを使って音声リーダーで読むということも可能である。
 活動としては、各店舗にホームページ上にメニュー内容を公開してもらえるよう働きかけること。CDへの録音技術を習得することと音訳サービスをする人材を確保すること。
 もし、これらが現実のものとなれば、少なくとも「点字メニュー」を利用する人よりも多く、音声メニューとして使ってもらうことができる。
 音声による情報提供を会として確率することができれば、メニューに留まらず、日常的商品の説明書などを音訳して提供することも可能となる。
 こうした場合でも、あくまで説明書などの情報提供は企業であることを前提とし、ボランティアは音声情報を担当する「手段」としての活動に携わる。
 このスタンスで関わっていけることを活動の目標として1年の計としたい。
posted by よろてん at 22:23| 京都 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月29日

ボランティアとしての視覚障害者外出支援活動 その5
「来年に向けて」

 初年度、4月から3月末までで50件ほどの利用が見込まれている。遅ればせながらとはいえ、思い切って活動を始めたことは良かったと思う。
 アイヘルパー養成講座も、現にガイドヘルパーをしている人や視覚障害当事者に協力してもらいながら2期実施し、50数名を活動員として登録。その内の半数以上がこれまでに実践活動を体験している。
 月例会の報告や活動記録を見ていると、入洛された視覚障害者とアイヘルパーが共に楽しい時間を共有していることが感じ取れる。
 視覚障害者にとっては「目の提供」をしてもらうことで京都を満喫することができ、アイヘルパーとして活動する人は能動的な視覚障害者に接することで「障害の有る人」に対するイメージを変えるきっかけになったかもしれない。
 報告の中では、誘導に対する技術的なとまどいの声はあまりなく、むしろ「いかなるルートが喜ばれるか」というのがメインテーマとなった。
 時間と経過とともに、「おすすめコース」というのが蓄積されていくことだろう。それは、「見えない」ことをターゲットに選りすぐられていくものもあろうし、丸ごと京都として受け止めてもらえる空間でもあろう。
 「ユニーズ」としては、個々の利用者に喜んでもらえるサービスと市民啓発が主なる目的ではあるが、こうした活動を通して視覚障害者の行動の自由を拡げていくための活動も並行して行っていかねばならないと考えている。
 公共施設や神社仏閣に対しては、視覚障害者が触覚や聴覚をとおして得られる情報を公開していくように。飲食店や宿舎に対しても「一人でも安心して利用できる環境整備」を働きかけていかねばならない。
 会のスローガンではないが、関係者に何がどのように不自由であるかを「知らせていくこと」、それが「知ること、それが理解の第1歩」と言えよう。
 こうした働きかけも、利用者とアイヘルパーが時間を共有する中から自然発生的に、まずは「声」となり、次のアクションへ踏み出すものになるのが望ましい。そうしたものを束ねて力にしていけるような活動に向けていければと考えている。
 自らの時間を提供し関わってくださっているアイヘルパーは「選ばれた市民」である。こうした存在をもっと増やしていきたいとも考えている。
 利用者には「見えないがゆえの負担」は、できるだけ負ってもらわないように努力していきたい。
 利用者の負担といえば、「何とかならぬものか」と思わせる事例が3件続いている。
 年末の南座顔見せ、京都市内観光バスツアー、京料理を楽しむ。これらは何れも1万円に近い経費となる。現状では、視覚障害者がそれらを楽しもうとしたらサポートする人の分も持つことになる。それは、現状にあっては当然のようになされていることだ。
 今、これらを楽しむ視覚障害者も、ある意味ではエリートである。経済的に恵まれていればこそできることだ。
 真に「目の提供」だけをするような人と人との出会いをコーディネートできたらと思わぬでない。
 観光バスに乗って観光したいと思っている人、たまには湯豆腐でも食べたいと思っている人。そういう人との出会いがあれば利用者の「余分な負担」はいらぬことになる。
 ボランティアである前に「見える人」として関わっていってもらえる出会い作りというのは夢だろうか?
 ボランティアが「恵まれた人」にサービスを提供するというのもありがちなことである。ここに留まっていて良いものか?
より生活に密着した「生きる」という次元に立ち返って、その一こま一こまに密着したサポートをする。というのもターゲットの一つ。
 地域・市民としての関わり方は「ボランティア」というレッテルをつけて何処までやっていけるものだろうか。
 そんなことを考えつつ来年も関わっていきたい。
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2008年12月23日

ボランティアとしての視覚障害者外出支援活動 その4
 「実践活動から」

 ユニーズ「おこしやす京都」では、アイヘルパーが集まる月例会を持っている。
 その中で、視覚障害者の実体験の話を聴いたり、誘導の実際の再学習をしたり、事例報告をしたりして、サポーターとしてのスキルアップと、各アイヘルパーが情報を共有する時間としている。
 今回の活動報告の中で、あるアイヘルパーから「エレベーターや電車の乗降のさい、当然視覚障害者などを優先すべきだと思うのに、さっさと先に乗り込む人がいて、一言注意した」と。
 他のアイヘルパーは、利用者と食事をとったさい、視障者のお皿の上にある食材が細かくなっており、なかなか取りづらそうな感もあったので、口元まで食物を運んで挙げた、という報告があった。
 状況から、それぞれに気持ちが分からぬではないが、世間からみれば保護的な行動と取られる心配もあり、利用者の自尊心を傷つけることになるかもしれない。
 実際、生活場面の中でも「何で貴方が言うの」と、当事者としては、横から言われた事について疎ましく思うことがあったり、関わり方によっては「子供扱い」的な扱いをされているような気になることもある。
 利用者からは、たとえば私から離れるときも目標物を確かめさせてから「ここでお待ち下さい。」と言ってその目標物を触らせてから目的物を探しに行ってもらったり用事をしてもらったりされたことが印象深い。との報告があった。これは、アイヘルパー養成講座の中で取り入れておいたことを実践してもらえたという点で良かったと思う。
 また、「きっと絶景の中を歩かせてもらったと思うが、それをあまり喜んでいたのではいけないとガイドさんは気を遣われてその言葉を押さえておられたように思う」と。しかし、担当アイヘルパーに尋ねてみると「そんな気配りはしていない。単に伝え切れていないということです」と。
 別の利用者さんからは、「空気がほどよく冷えて澄んでいて心地よい空間を感じながら京都の晩秋を感じることができた。目で見えなくても、触って見る、聴いて見る、食べて見る、見る手段はたくさん残っている。見えなくなって今までと違う感覚の世界で京都を感じることができて嬉しい」と。
 一方、宇治平等院。源氏物語ミュージアムに行かれた利用者さんは、展示物が、見えないのは悔しい。残念なことは触れることができる展示物が非常に少ないこと。しかしそういう条件の中アイヘルパーの方がよく説明してくださったのである程度理解できた。
 別の博物館に立ち寄られた利用者さんからは、「見えないのにわかるの」という意味のことをよくいわれるが、だからこそ言葉による説明が重要で、博物館なども十分に愉しむことができるのである。という報告があった。
 秋の企画を考えたさい、アイヘルパーからは、「人がいっぱいなような時季を選ばずに、もっとゆっくり楽しめるコースを選んだ方が良いのではないか」という声もあった。が、終わってみれば、人で込み合う紅葉の道や町の雰囲気を実感できる錦通りなどは、けっこう喜ばれた。
 入洛された利用者さんにもそれなりに楽しんでいただけたかと思うが、こうした活動を初めて行ったアイヘルパーの人たちの生き生きとした報告を聴いていると、「京都を楽しんでもらおう!」という地元の人間としてのサービス精神を感じて、もとより見えない人を安全に誘導しなければ、という責任感から来るプレッシャーもあったろうが、そういうものを上回る何かをアイヘルパーそれぞれが感じ取っていただけたことは喜ばしいことであった。
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2008年12月18日

ボランティアとしての視覚障害者外出支援活動 その3
「民間としてできること」

 視覚障害者の情報の自由を確保するための点訳・音訳・拡大文字は、ボランティアの力によって支えられてきたといえる。
 点訳のネットワークや校区で学ぶ視覚障害児の教科書保障などについても、ボランティアの活動の中から具体化してきたものである。
行動の自由を保障するガイドヘルプについては、公的ガイドヘルパー制度がある。
 しかし、1ヶ月間の利用時間枠があり、利用できるエリア・内容についても規制されていることから、日常生活の中で1個人として思うような行動ができないというのが実状である。まして、一定生活圏以外の所で余暇を楽しむということは許されていない。
 視覚障害者のQOL(生活の質)向上の一役を担うのが「おこしやす京都」の活動である。
一応、利用者とヘルパーという位置づけにはなっているが、日常生活場面のサービス提供者と受益者という関係よりも、人と人との新たな出会いという要素がある。それは、「見えない状態」をシンプルに知ることのできる時間ともなっている。
 公的ガイドヘルパーに求められないあるいは求めにくい事柄について地域の住民や一定の学習をしたボランティアがサポートできるというのが望ましい。
 しかし、そうなるとニーズは多様化して来る。むしろ、本来は民間の協力では限界のあるものについてしっかり公的に保障していくというのが望まれる。
 現に有るニーズを踏まえての実践もしながら、公的保障へ結びつけていける道筋をつける道路工事を当事者といっしょにしていくというのもボランティア活動の一つのあり方ではなかろうか
 公的には、エリアの他に活動時間枠というのがある。しかし、生活の中で移動の自由を奪われてしまう時間があって良いものだろうか?
 視覚障害者にとっては、行動とともに生活の中で読み書きは付きまとうものである。しかし、制度的にはガイドヘルパーに頼むことはできない。
 また、「今すぐ見て欲しい」と緊急を要する場面も生きていく中では出て来ることだろう。こうした多様なニーズを「やむを得ない」と結果的に切り捨ててしまっているのが現実である。
 公的に切り捨てられているものを放置せず、民間としてできる部分をサポートしていくボランティア活動。それも、補填し続けるマラソンランナーではなく、やがては公的支援にバトンタッチできる走者でありたい。
 障害の有る者は、日常生活を行う上で、常に一定のサポートを必要としている。しかし、民間のボランティアは常に100の力を保持し続けることは無理だし、それを求めることはできない。
 自ずから、公・民のやるべき分野というものが見えて来るはずである。こうした視点に立った検証を関係団体や個人としていきたいものだ。
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2008年12月10日

ボランティアとしての視障者の外出支援活動 その2
 「障害別を越えて」

 従来は入洛される視覚障害者がご自身でプランされた所をサポートするのだが、11月の一定期間「秋の特別企画」として、予め当会の方で企画した3コースに「何れかに参加しませんか?」と全国に向けて呼びかけた。
 準備段階では、「果たしてどれほどの人が応募してくるだろうか?」という思いと、逆に応募が多かったら「アイヘルパーが対応できるだけ要請できるだろうか?」という心配も正直あった。
 ところがふたを開けてみると、アイヘルパーの割り振りに合わせたように利用者さんからの依頼が来る。結局、東京・新潟・浜松・四国から関西、合わせて20名近くの方が入洛され、アイヘルパーも初の活動を体験した。
 今回の活動で「良かった!」と思う点は幾つもあるが、その第1は「障害の違いを越えてサポートできた」点である。
 幾組かのご夫婦が入洛されたが、その中に奥さんが上・下肢障害の有る方が二組おられた。
 窓口から「どうしますか?」との問い合わせがあったとき、「視覚障害のサポートをすることを前提として登録してもらっているアイヘルパーに肢体障害者のサポートをして欲しい、といったら、どんな反応が返ってくるだろうな」と考えた。
 依頼者には即答せず、その日に担当してもらうことになっているアイヘルパーに打診してみた。
 すると、両方の担当者とも「やります」とわだかまりのない返答が返ってきた。
 まず、これにほっとすると同時になんとも嬉しい心持ちになった。その一人はホームヘルパーの資格を持っており、他の一人は養護学校で働いていたことがあるという。
 Aご夫婦の奥さんの方は、電動車椅子を使っておられるということで、全盲のご主人をサポートする男性アイヘルパーの方が事前に観光コースとして移動するルートのエレベータやトイレの使用、タクシーの手配など下見と情報集めをし、Bさんの方も、ご主人サポート担当役の男性アイヘルパーが数日間かけて当日歩く道をゆっくり歩いて見て、その時間に沿った行程表を作成し、当日は見事に時間かっきりの終了となったとのこと。
 アイヘルパーも複数で動けたことで安心感が得られたようだし、帰られた利用者さんからは「病院通いの毎日、こんな楽しい思い出が残せて嬉しかった」 「いつもは主人の手引きなどで気を取られがちで、今回のように紅葉をゆっくり見られて良かった」と、喜んでいただけた報告があった。
 過日の外出支援のグループの集まりの中では、「視覚障害以外の障害の有る人は受け付けないようにしている」というところが幾つかあった。安全面やヘルパーの負担を考えればそういう結論にいたるのもやむを得ないところもある。
 しかし、ボランティアだからこそ枠組みを越えて関われることがある。最重点におくべきは利用者のニーズであり、そのニーズをどのように受け入れていくかを考えることが必要である。
 結果として実現可能なこともある一方で断念せざるを得ない場合も出て来るであろう。
 アイヘルパー個々の能力を発揮してもらい、相互のコンセンサスを取りながら、ボランティアの可能性を広げていきたい
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2008年12月07日

ボランティアとしての視覚障害者外出支援活動 その1「利用者負担」

 他府県の視覚障害者を外出支援として受け止めるボランティアグループの集まりがあり出かけてきた。
 視覚障害者には二つの不自由が有ると言われている。
 その一つは、情報障害であり、他の一つは行動の不自由である。
 情報障害に対しては、点訳や音訳のボランティア活動がある。
 ユニーズ(元「盲福研」)でも、今は点字メニュー設置に取り組んでいるが、これまでに校区へ通う視障児の教科書保障やプライベート点訳などで関わってきている。
 20数年前、教科書点訳の点字用紙代は当然のように父兄が負担していた。一方、盲学校の生徒には点字教科書が無料で配布されていた。
 近年、ようやく地域の学校へ通う視障児の教科書点訳にも公的援助の手がさしのべられつつある。
 同じ頃、聖書や漢方のプライベート点訳の依頼があった。本会では、依頼して来られた視障者から墨字原本代を点字用紙代として受け取り、それを上回る点字用紙代については会で補填していた。価格差保障(同様な考え方)で公的保障が確立したのはその後である。
 今回、外出支援のボランティアの集まりの中で、ユニーズとしては、「利用者である視覚障害者の行動の自由を保障する意味でも、余分な経済的負担をできるだけ負ってもらわぬようにしている。アイヘルパーと利用者さんが出会う交通費は会が持ち、昼食代の一部もアイヘルパーが支払うようにしている」と報告した。
 この「余分な負担」という言葉が他のグループの方には引っかかったようである。
 他のグループでは、交通費や昼食代は利用者さんに持ってもらっている。ボランティアは人的サービスをし、利用者には経済的負担をしてもらうことで一定のバランスをとっていると考えておられることだろう。それは、利用する視障者の中にも根付いている面がある。
 そこへ「余分な」という言葉が飛び出したので戸惑いとひょっとしたら違和感を持っ受け取られたかもしれない。
 昼食代の一部をアイヘルパーが支払うということについては、考え方いろいろあり、本会としても今一度話し合っておかねばならないことだと考えている。
 しかし、伴に行動する以外の場面の交通費や通信費まで利用者が負担するというのは
「余分」としか考えられない。
 とより、「ならば、その費用は誰が出すのだ」というのは十分論議に値する。
 本会では、助成金の申請をことあるごとにするようにしている。
 賛助会員や協力金のことについても考えていかねばならぬだろう。
 そうした経験や情報も得たいと考えていた。
 しかし、残念ながら、その場の雰囲気としては「それくらいは利用者が出すのはやむを得ないのではないか」という20年近く前の空気と同様であった。
 「歩く自由」を、その個人の要求を満たすための手段として考えるのか、「見えない」ことから来る不自由をどう支えていくのか、という視点でかんがえるのか。

 それは、個人に余分な負担を負わすのか?
という問いかけになると思うのだが…
posted by よろてん at 22:26| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月20日

世の中、まだまだ捨てたものじゃない!

 京都へ来られる視覚障害者を受け止める「おこしやす京都」の活動を支えるアイヘルパー養成講座第2期がまもなく修了する。
 5月から始めた講座は、7月からの後半は屋外実習に入った。
 雨にこそ遭遇しなかったが、炎天下の実践である。
 顔面にはアイマスクを装着し、誘導者は長袖を着用し(直接腕を汗ばんだ手で触れないように)、人が傍から見ていたら「がまんくらべかいな!」と思うような様相で、細い歩道を歩いたり、地下鉄やバスに乗降し、ある時はボルタの地下ショッピング外を歩いたり、神社の石段を白杖使用して足下を確認したり。
 今回の受講者は40数名。20代の青年から70歳を過ぎられた年輩者もおられたが、皆さん明るく元気に学習を終えてくださった。
 その前向きな姿勢とパワーに接して、主催者の一人として、また、視覚障害者を受け止める活動に関わってくださる人たちの熱意に1当事者の立場として嬉しい想い一杯である。
 また、バスや電車に乗ったさいに快く座席を代わってくださる人たちが多かったことも印象的であった。 
 実践学習には手引かれ協力者として数名の視覚障害者にも関わってもらった。
見えている者がアイマスクを着用することで、一定の「見えない体験」をすることは出来ても、手引かれる代行者になることにはかなり無理がある。やはり手引かれプロの視覚障害者の自然な歩きと、経験からくるアドバイスは生きた学習になったようだ。加えて、自宅から講習会場までの送迎を受講者に実践学習を兼ねて行ってもらったが、この送迎の道中での視覚障害者とのフランクな会話は、それまで心の何処かに持っておられた「障害者感」を大きく変える一助となったようだ。
 また、路上駐車している車への怒り、地下鉄のうねうねと続く階段の多さ、車内放送の聞こえ方が鮮明でないこと。バスの運転手のバス停での止め方、などなど。今まで目を開けて町を歩いていた時には気づかなかったことに多くの人が心を止めてくださっている。
 「おこしやす京都」の活動員になってもらえることはもとより、この講座を通して視覚障害者を最初は活動の対象者として考えておられた人の中にも「同じ市民として人としてつき合っていこう」という想いになってもらえたことは大きな収穫である。
posted by よろてん at 22:24| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月01日

商工会議所に活動協力の御願いに出向く

 28年も取り組んでいる「点字メニュー設置運動」は、時間の経過の割に広がりを見せず、お店側も関わるボランティアの意識も私が期待したほどの手応えがない。
 こうした中で、新たに取り組みに入った他府県からの視覚障害者を受け入れる「おこしやす京都」の活動は、新しい取り組みということもあってマスコミにも取り上げられ、活動に関わるアイヘルパーも気合いが入っている。
 この二つの活動をうまくリンクさせてユニーズとしての目的を少しでも達成していきたいという想いから、ボランティアセンターに仲介してもらって商工会議所に、何らかの形で力になってもらえないかと御願いに出向いて来た。
 京都市では外国の人も気持ちよく受け止める一助としてメニューなども幾つかの国の言語で設置するような働きかけをしている。本日、窓口として対応してくださった係りの方も「点字メニューも、それと同じ位置づけで考えられますね」と共感してくださった。
 定期的に観光協会や府・市などの関係部局との話しあいもあるので、そういう場に提示できないかを検討してみたい、と好意的な返答が返ってきた。
 こうして業界として前向きに取り組んでもらえれば社会的なインパクトもあり、メニューに留まらず宿泊施設の視覚障害者への環境整備など、視覚障害者の生の声をダイレクトに伝えていけるパイプもできる。
 ボランティアセンターの職員も同行してくれたが、「ボラセンも一役かったことを新聞にも載せてもらうようにしたい」という。それはそれで意味のあることではある。
 私としては、観光協会に支援してもらって京都駅近辺の飲食店には少なくとも「点字メニュー」のある環境。神社仏閣には障害の有る者ももっと観光を楽しめる心配りを求めていきたいし、アイヘルパーの拝観料は無料にして欲しい。
 我々の活動は「目の提供」であるから、観光ガイドボランティアや京言葉を語る会などのグループともコンタクトをとって必要な場面で協力してもらえるような接点が持てればと考えている。
 「点字メニュー」の受け入れ体制ができるようであれば、チェーン店なども多いことから、同じような活動をしている活動グループを全国的に見いだして緩やかでも接点のあるネットワーク作りができないものかと考えている。
 各企業の中で「視覚障害者への接し方」などの研修会もしてもらえたらありがたい。
 今日のところは多くは語らず、とにかく「当事者の声を直接聞いてもらえる場の設定がしてもらいたい」旨を押さえとして話して30分ちょっとの顔合わせを終えた。
 何時、呼び出しがかかるかが楽しみである。
posted by よろてん at 22:25| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月08日

ボランティア活動は手段で終わって欲しくない!

 今回の第2期アイヘルパー養成講座には3コース併せて40数名の受講希望がすでにある。
 二つのコースでは当初予定していた定員に達しているばかりか、私の独断で多少人数オーバーしているコースさえある。
 実際に講座を支えてくださるスタッフの方からは「こんな多くの人たちをフォローできますか?」とおしかりを受けそうであるが、私としては視覚障害者に対する理解を深めてもらえる一助として手を挙げてくださった人には「知ってもらいたいこと」を伝えていきたい思いで一杯である。
 ここ数年、点字メニューに関わってくださるボランティア募集をしてもなかなか人が集まらない。
 点字に対する興味が一般の人に以前ほど見受けられなくなったのも事実だが、市の主催する点訳講座にはまだまだ希望者が集まるとも聞く。その講座の修了日に「ユニーズでは、点字メニュー製作などもやっているので力を貸してください」と、お誘いの声かけをさせてもらっている。だが残念ながら足を向けてくださる人はほとんどない。継続して点字の学習をしているサークルの方にはけっこう沢山の人が入会しておられるとも聞いている。
 点字は活動をする手段であるよりも、個々の学習欲を高める手段として使われているという傾向は今も続いているようなところがある。
 啓発の窓口を失いかけている中にあって、応募してくださったことは嬉しい。
 「点字メニュー」は情報の自由を得るための活動であり、アイヘルは行動の自由を保障するものである。
 願わくば、1市民として緩やかでも両者に注目しながら活動に関わってくださる人を増やしていきたいと思うが、現にボランティとして関わろうとしている人個々にとっては、「点字も手引きも」という重複した活動への関わりが重荷となり、情報としても受け止めがたいものになっている。
 昨年は、点字メニュー活動において、点訳作業とお店への外交という行動で、一人のボランティアが両立することの難しさを感じさせられた。
 今回は、ユニーズのメーリングリストにおいて、メニュー活動を中心としていた旧来のユニーズメンバーの所へアイヘルパーのメンバーを加えたことで、アイヘル側からは、「関係のないメニューの情報が飛び込んできて困る」という声が上がった。
 従来のボランティアの考えからすれば当然のとまどいともいえるだろう。
 それを「障害を対等な立場で考え合える市民へ」という私の思いに引き込もうとしているところにギャップを生じているのだろう。
 そうしたボランティアの想いを背負いながら、老いて来る心身の中でいつまで前を向いて歩けるだろうか?


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2008年04月29日

ユニーズ「おこしやす京都」の実践活動を前に

  アイヘル活動のように進めていったら良いか?
 その研修の第1段として、奈良で長年に渡って、外出支援活動をされてきたWさんに出向いて来ていただいて、今までに経験して来られたことを中心にお話を伺う時間をもった。
 私として外出支援活動についての想いはいろいろあるが、今回のお話を伺って再認識したり、今後考えていかねばならぬ問題を引き出すヒントも与えていただいた。
 一つは、活動をするに当たってアイヘルパーが「私はボランティアである」という表示をつけるかどうかである。
 ちょっと以外だったのは、この「ボランティアである」という表示を身につけて町中を歩くことで「私はボランティアであるということをみんなに標榜してしまうことになり、これは一種の個人情報にも当たるので携帯しない」という考え方があるとのこと。
 ユニーズでは、一般的に考えられているように、「家族ではないということを示すことにもなり、こうした活動が有るということを町中の人にも知ってもらえる。」などの理由で所持することを前提とし、どのような内容の表示が良いか目下検討中というところである。
 その2として、
 観光なで同行しているさいに、お昼時になって昼食を取らねばならないとき、アイヘルさんの昼食代をどのように扱うか?
全国的な流れとしてはボランティアさんの分も利用者が持つというケースがほとんどらしい。私は以前から昼食代の一部500円は、ボランティアに自己負担してもらって良いのではないかと主張している。自宅で済ませればそれほどはかからないと言われもするが、自分の昼食代に相当するものまで利用者に負担させることはないのではないかと考えている。
 「見えない」ことによる不利益を「金を出す」ということで処理していかねばならぬ現実。
 本来は、障害の有る者の行動の自由は公的に保障されるべきものであると考える。しかし、そうした意識にまでは成熟し切れぬ今。
当事者と非当事者(理解者)が、その目的達成にいたるまでのプロセスの中で、どのようなスタンスで「障害」を分け合うか?
 その3は、弱視者への関わり方である。
 複数で入洛された場合に、全盲の中に弱視者が混じっているとき、「私は弱視だからボランティアさんにサポートしてもらうことはない」と言われるケースがある。ご当人は一人で行動していることから「大丈夫」と思われている。が、人混みが多い所や急に明るい所から暗い所へ入ったときなど、やはり全盲のサポートをしているボランティアが、その弱視者の行動を気遣わねばならぬことが往々にしてあるという。
 アイヘルにサポートを頼めば、それなりに費用も加算でしまうことから、「大丈夫!」ということも考えられる。この当たりの当事者の思いとサポート側に生ずる「負担」。これをどう処理していくかも微妙なところである。
 その4は、アイヘルに対する入場料金の問題である。
 利用者が新幹線などで京都駅に到着したさい、改札口よりは電車のドアの所まで出迎えるのが互いにとってベターである。待合い場所を改札口にしたことで違う場所で待つという経験を初回から味わった。
 電車から改札口までは駅の職員が誘導してくれることになっているが、ダイレクトにアイヘルに受け止めてもらえれば気持ちの上でも安心である。また、帰りも乗車口まで見送ってもらえたら、これも互いに安心し、友好的な別れもできる。
 こうしたことから、アイヘルは「目の代わり」として無料で入場できるよう働きかけていきたい。同様に、寺社の拝観料もアイヘルは無料にして欲しい。利用者・ヘルパーそれぞれを半額にするという所があるが、この「負けてやる」という発想よりはアイヘルは無料という考え方で問うていきたい。
 視覚障害者であっても入観料は通常通り払って良い。ただ、見えない人に触れてもらうこともできず拝観料を払ってもらった値打ちがないと判断して半額にしてもらうのはやぶさかではないが、そうしたときにでもアイヘルは無料であって欲しい。
 その5として、活動を支えていくための資金調達である。上にも述べたように利用者の負担は最小限に止めたい。
 そういう思いから通信費やアイヘルが自宅から利用者と合う間の交通費などは利用者に負担してもらわないでおこうとすると、その分の出費は会費からとなる。現状は助成金で運営することができているが、安定した収入源とはいえない。
 活動をしっかり運営していくためにはコーディネーターに責任を持って関わっていってもらわねばならない。将来的には仕事として関わってもらえるような位置づけになればと考えている。そうするためには安定した一定額の収入が必要となる。
 奈良の会では賛助会員制をとって運営されて来られたそうだが、こうした実績も参考にさせていただきながら、当会としては無理のない活動を進めていきたい。
posted by よろてん at 20:34| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする