2006年10月17日

自尊心って?  デイケア業務の中でのひとこま。  

 利用者さんのお一人の中で、相当耳の遠い方がおられる。
周囲の方とコミュニケーションを取る手段として、時と場合に応じて「筆談」を使われた方が間違わず誤解を招くこともないのではと私など考える。
ところが、他のスタッフによれば、「この方は筆談はしたくないと強く拒否されておられる。ご当人の自尊心を傷つけない意味でも筆談をあえて勧めたくない」という。

 他の事例であるが、杖無しでは屋外歩行はちょっと不安定であるが、杖を使えば楽に歩ける人がおられる。
しかし、この人「杖なんか持ったらかっこ悪い!」と杖使用には消極的。

 筆談をすることが「聴覚障害」に結びつき、杖を持つことは「もはや正常ではない」という概念に結びついていることはないだろうか?

 「自分たちはそうした枠組みの中にはいない」というのが心の何処かに沈んでいて、
これが「自尊心」とい形で有形無形に現れているのではないか?

 もとより生活歴の中から育ってきたこの「自尊心」なるものを頭から否定する
ことはできないし、それはそれとして受け止めることが必要なのかもしれない。

 しかし、個々の持つ自尊心は、見方を変えれば他の人の「人間としての尊厳」を否定しかねない。
 私たちが尊重すべきは、「自尊心」である前に「人間としての尊厳」でありたい。

 耳が聞こえなくとも、足が不自由でも人間としてしっかりコミュニケーションが成立し、自由に行動ができることが、社会的にも個々人にとっても最も大切であろう。
 しかし、「まずは利用者さん個人の自尊心を守りたい!」という現実的な言葉の前に埋没してしまう。

 1利用者さんとスタッフの関わりの中では「個人の価値観」を重んずることは必要だろう。それで止めておいて良い話かもしれないが、私の中では払拭しきれぬものが残っているのも現実である。
posted by よろてん at 22:01| 京都 | Comment(8) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月06日

介護  生きるも死ぬも金次第

人を経済的観点から国は「在宅で身内の
者が年寄りをみなさい」と指導しています。
 この4月からリハビリテーションに
かかわる我々の周辺でも大きな変化が
生じて来ています。
その一つは行政主体型にありがちな「まず
書類ありき」の業務内容です。
 対象になる患者さんや利用者さんに直接
関わるべき時間を裂いて机に
向かわなければならないのです。もとより
記入することによって確認できること、
新たな発想を展開することもできます。
しかし、医療・介護がこんなもので
よいのかという思いは現場で長い間、
仕事をしてきたものとしては強く
感じる疑問です。
 また、これほど経済的力の有無が端的に
対象者にのしかかって来て良いものかと
いう疑問といらだちさえ感じます。
 入院患者であれば心身状態による判断の
前に差額ベッドを使用しているかどうかに
よって他の施設へ移すかどうかなどの
判断がくだされがちです。
 在宅のサービスにしても経済的負担が
ネックとなって適切な支援が受けられないと
いうケースが増えています。
このような現状を容認しておくと、行き場の
ない老人が人の目に触れないところで
残酷な虐めにあったり、衛生面はおろか
食事も満足に口にできないという実態が
増え続けることでしょう。施設の中では
言葉による暴力も含め「声なき老人」に
容赦なく人権無視の行動が心無き
職員から浴びせられています。
 日々報道される「弱い者への虐待」の
実態は、政治の無力と人の心の退廃に
よって加速度的に進行しています。
 80年・90年、家族のため社会の
ために一所懸命生きてきた人が、こんな
惨めな最後であってよいのかと強く
感じます。
 国の防衛ってなんなのでしょうか?
 誠実に生きてきた国民一人ひとりを
しっかり守ること。それこそが、まずは
大切なのではないでしょうか?
 「早くお迎えに来て欲しい!」と真に
思わせてしまう国力というのは
なんなのでしょうか?
 介護の問題は一人ひとりが自らに
引き寄せて考えていかねばなりません。
 今こそ「人間復権」、真の
「リハビリテーション」の理念が
問われています。

posted by よろてん at 10:44| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする