かなりの勾配を上がった所に、その施設はあったような覚えがあります。
私にとって、ここに入所しているCP(脳性小児麻痺)の人達との出会いは、それまで自分の意識には全くなかった世界を目の前にした驚きでした。
こんなに重度な人がおられるのだ!
自分で体を自由に動かすこともできず、思っていることを相手に伝えることも難しい。
当時、表現は今に思えば適切ではありませんが、「ミルクのみ人形のような人達と関わることの難しさ」というような表現で1文を書いた覚えがあります。
このような重度の障害を持っている人達を「人」として、しっかり自分の中に引き寄せて関わっていけるのだろうか?一方的な関わりになってしまわないのだろうか?職員に全てを託している、この人達は「する側」の行為をどのように受け止めているのだろうか?
そうしたことが衝撃となって自分の頭に跳ね返ってきました。
「障害」というものを意識し出したのは、この衝撃が一つのきっかけとなったことは確かです。
見えない・手足が不自由、というような次元でなく、人間としての尊厳を共有しあえるのか?これがその時の率直な思いでした。
病院の仕事においても、手足の骨折の後遺症に対する治療から、脊髄損傷の人達と関わるようになりだして、単に「治す」という次元から、「その人の復帰」という大きな課題に寄り添う時期ともなりました。
こうした環境と刺激の中で「リハビリテーション」という言葉だけが行き交っていた状況から、自分もその一端としての理学療法士としての道を歩んでいきたいという気持ちが強くなってきました。
ちょうどそのころ、先人たちが特例措置として受験資格を取得するための運動を実らせてくれ、理学療法に関わる病院勤務者にもPT(理学療法士)の受験資格が与えられるようになりました。
受験するためには、240時間の講習を受けねばなりません。土曜日は午後4時から7時。日曜日は午前9時から午後5時まで。会場は全て大阪です。
毎週、半年間通い続けました。これは正直かなり堪えました。視力がちょっと低下傾向になったのは、このときの心身両面の疲れが貯まったせいかもしれません。
それでも、抗議の内容は今までにはなかった内容も多く、しかし反面、とにかくスライドが多くて読みとることはほとんど不可能でした。