早速、宿舎へ「盲導犬同伴」でと予約を入れようとした。ところが、「盲導犬は受け入れられない」という。またか!行こうと思う先々でこう言われると正直疲れる!
それでも、このままにはしておけない。盲導犬協会へ連絡。協会は昨夏のサントリーのこともあるので対処はスムーズであった。
まず、補助犬法があることを知らしめるために宿舎に書類を送り、京都府を通じて地元の保健所から説明に出向いてもらうようになった。しかし、宿舎側では「説明に来られても受け入れる気持ちがないのだから来てもらっても無駄」という返答があったという。京都府に「こうして拒まれたとき、その宿舎に対して社会的制裁を加える何かがあるのか?」と質してみたが、「記録して保存しておく」というだけ。倉庫に入れておいて何になるのだ!
何処で、どう気持ちの変化があったのかは定かでないが、その後、支配人とのやり取りの中で「受け入れる」ということになり、こちらから予約したときも何の抵抗もなく「どうぞ」となった。
予約しようとするお客を事も無げに断れるというのはどういうことなのか?
ペットを連れた客を断る、という感覚なのではなかろうか?少なくとも見えない者が行動の自由を得るために使っている手段とは考えていないのだろう。白杖を使っている視覚障がい者を、「貴方は白杖を使っているからお断りする」と言ったら、これはマスコミにも取り上げられるほどの問題になるであろう。本来は、そのレベルと一緒に考えるべきことなのだ。
補助犬法があるにも関わらず・「盲導犬同伴入店可」のステッカーが貼られているのはおかしい!私は「盲導犬拒否」のステッカーを準備して、いやだと思う店には、それをしっかり貼るようにしてもらいたい。義務ずけているだけなのだから、いやだという店にはわざわざ足を運ばないだろう。
「盲導犬同伴」という表現が広く用いられている。これは、ペット同伴の延長線上にある。
視覚障がい者にとって白杖同様、盲導犬は行動の自由を得るために「使っている」のである。
「ユーザー」という言葉を、社会も関係者も当事者ももっと認識すべきだろう。
ユニスが10歳になることもあって、そろそろ代替えを考えるための面接があった。
この中で、私からの注文は、代替えとなる犬には、「眼の変わり」をしてくれる犬であって欲しい。物を落とせば指示にしたがって拾ってくれる。空席があれば示してくれる。音も無く車が近づいてきたら足を踏ん張って動きを制止する。などなど、人的にサポートしてもらうことを犬に託す。これこそが視覚障害者が使用する犬である。
「盲導犬」という言葉には、見えない者が犬に導かれている、というようなニュアンスが感じられる。
人的サポートは、なかなか眼の提供のみに徹しられない。その点、犬は無駄なサポートはしない。
この利点を社会・生活場面で明らかにしていくことによって、盲導犬に対する位置づけと距離感が変わって来るのではなかろうか。
常々思っていることだか、盲導犬が情緒的に扱われている内は、ヘットの延長線上で終わるしかなかろう。