その日、時刻が近づいたころに「渋滞に巻き込まれているのでちょっと遅れる」と寺の人から電話が入る。30分待ったころに現れたのは住職ではなくてその息子である。
すーっと入ってきて仏壇の前に座る。薄い教本を出して読み出た。
その声は若いけど坊さんの声になっている。
さて、今日は何分唱えてくれるものかと腕時計の蓋を開けて針に指をやる。「今35分だ」。ほどなくお焼香をする盆が回って来る。お線香の香りが部屋に蔓延する間もなく、チンと小さなお鈴の音がしてもうお勤めは終わったようだ。時計の針に指をやると40分。実に5分のお経である。
後で聞くと門前に迎えた家人に対して「遅れてすみません」とも何とも言わなかったばかりか、乗り付けた車のクーラーを切らずエンジンをかけたままで勤めをしたようである。
あまりに短い経本でもあり、そのありがたさは、なおさら分からなかったが、宗教の道を志すもの、まずは人としての最小限の礼儀と社会的責任くらいはしっかり果たせる心を持つことから始まるのではなかろうか?
檀家回りは2年目だと問いに答えた。形式仏教のコツを伝授するのでなく、宗教家としての第1歩を父上には是非とも教えてやって欲しい。
こんな形式的なお盆参りなら来年からは来て欲しくもない。
父母も、毎朝かかさず供えてくれる家人の膳の方がどれだけ有り難く感じていることか!般若心経の点訳したものもある。とても覚えることは無理だが来年はなぞりながらでも仏壇の前に座ろうか、などとちょっとだけ思う。
私が子供のころのお盆風景。がらりと開け放つた奥の畳の間。家族の者みんな壁際に並べた座布団の上に正座する。お坊さんの後ろで母親がゆったりとした調子でうちわを使って風を送る。お経が始まる。なかなか終わらない。そろそろ痺れが切れてくる。うちわで扇でいるのも手が疲れないかと思う。
それでも伸びやかなお経の声は夏の空気の中で不思議ととけ込んでいる。
お経が終わるとほっとした気分とともに子供心に「ありがとうございました」という気持ちで頭を下げたものだ。
今、保育所の数が足りないと社会問題になっている。
一報、寺は全国に何万もあるという。
核家族化が進み先祖が作ったお墓も無縁仏になっている所が増えているという。
何時までも形式仏教に頼り檀家に集っているよりも、社会貢献、子供たちを受け入れる場所として「チェンジ」していくお寺さんもあって良いのではなかろうか。
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