2009年06月29日

welcome!盲導犬

 お久しぶり!ぼく盲導犬ユニスです。
 暑くなって来てお父さんとの朝の散歩も舌を出しながら歩く日も出てきました。
 お父さんの散歩、日によってはある場所からは全く僕任せの歩きになっている時もあるよ。何処を歩いているのかお父さん自身よく分からなくなって携帯のカメラでその辺を写しておいて家に帰ってからお母さんに「これどの辺かなあ」なんて聞いているんだけど「さて!」と焦点のあっていない画像を見てお母さんも分からない時がある。
 それでも僕は何時もきっちり間違いなく家に帰って来ているよ!
 この前、お父さんと病院へ行った。この病院、まもなく丸2年通ったことになる。初めは職員の人も「外来の多い時間は避けてもらった方が」なんて言って、お父さんがクレームをつけたような時もあるけど、今や「賢く温和しい犬やなあ」と名物になっていると思う。みんなにこにこ僕を見てくれる!
 診察室、担当の医者が変わったこともあるようだけど、どうも言葉のやり取りを聞いていると、お父さんとしては頼り切ることができないようで、今度は違う病院へ行くみたい!
 病院からの帰り道、「ユニスともこうしていつまで歩けるか分からないしなあ?」なんてちょっと心細いことをいう。
 元気な内にあちこちへ行っておきたいということもあるのか、帰りのその足で旅行会社に立ち寄った。
 昨秋にもここでプランの相談をしたのだけど、僕が一緒に行くというので宿泊先がなかなかすんなり決まらない。
 今回も夏と秋の二つのプランの相談をしていたのだけど、担当者の人が「盲導犬も一緒なんですけど受け入れは大丈夫ですか?」と電話口で訊ねると、何やらあやふやな返答があるみたい。お父さんが「補助犬法というのもあるので受け入れないと言っているのなら、その理由を聞いて欲しい」と担当者に伝える。担当者は「盲導犬法というのがあるんですけど」なんて先方に話している。五つ・六つと宿泊先に電話を入れてもらうのだがほとんど受付では、らちがあかないようで、「責任者に聞いてもらうようにしてください」とお父さんが旅行社の人に頼む。折り返し責任者から返答がある所もあるようだけど再度問い合わせないと返答がなかった所もある。
 お父さんの足下で伏せながら、そうしたやり取りを聞いていたのだけど、幾つか目の問い合わせ先で電話をかけていた旅行社の人が「盲導犬は大丈夫ですか?」と電話口で訊ねた、すぐ後に、「そうですか」と受け答えたのを聞いてお父さん「ここはすんなりオーケーやったんやなあ」とほっとした言葉を聞いたひょうし、思わず僕もしっぽを振ってしまった。結局、二つの旅行をまとめるのに3時間かかってしまった。
 何処の宿舎も盲導犬を受け入れた所はほとんどなく、実際に僕のように温和しくしていることも知らぬままに「ちょっと!」と拒んでしまう。
 僕が1回行った所では「理解不足で申し訳ありませんでした。またどうぞ!」と言ってくれるのに!

 お父さんからのコメント。
 世間はまだまだ盲導犬に対する理解は乏しい。町中で歩いているときの目線は優しくなりつつあるが、宿泊やタクシー・飲食店などを利用するさいにはちょっとかまえてしまう。
 補助犬法というのが制定された中で「盲導犬受け入れ可」という店先の表示はおかしいのではないか。むしろ盲導犬を受け入れないのなら「不可」という表示を社会に向かってすべきではないかというのが私の持論である。
 先日、点字毎日の取材を受けたさいに、元盲導犬ユーザーの取材者に、この話をした。彼いわく「「welcome!盲導犬」って表示してくれたら良いのですよね」という。
 まさに、この考え方こそが正解である。
posted by よろてん at 21:43| 京都 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 盲導犬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月25日

セカンドオピニオン

 整形外科受診。
数日前に撮ったCTの結果は案の定、頸の靱帯が骨化しているとのこと。近頃は左の肩の関節の動きが制限され上着の袖を通すときに顔を顰めることがある。
 ドクターにそうしたことを告げると「そりゃあそうだと思う。この写真を見たらもっと状態が悪いと言われても納得する」とあっさり言われてしまった。
 私などは多少でもこうした疾患についての予備知識やインターネットでそれなりに調べているので、そうした返答にびっくりはしないが、一般の人が聴いたらどうだろう。
 この病気は神経が圧迫されて徐々に麻痺が進む。だから外科的に圧迫を除去してやらないと一端衰えてしまった神経は回復しない。
といって、皮膚にできた出来物を容易に切り取るのとはちょっと事情が違う。
 何時も、診察室に入ってドクターと向かい合っての話は「何時、思い切って手術に踏み切るか?」という話になる。
 この春から外来担当が変わり、今まで診てもらっていた医師の上司とのやり取りとなっているが、このドクターえらくリスクのことばかり言い、「何時するかどうかは患者が決めることであり私から申すことではない」という。
 前回の診察時その言葉を聞いて「さてどうしたものか」と考えた。
 近頃、セカンドオピニオン(他のドクターに意見を求め、それらの情報の中からより良い選択しをする)というシステムがあることを聞いている。
 今、自分の置かれている状態からしても「これだ!」と考え、思い切ってドクターに切り出してみた。「それは良いと思いますよ。ただセカンドオピニオンというのはあくまで今、診ているドクターが参考意見を求めるために他ドクターを紹介するもので、その診療費は実費であることを承知しておいて欲しい」という。
 また、私が今度診察をしてもらいたいと考えているドクターは、今かかっているドクターとは大学が異なり「手術法にしても対極におられる人ですね。写真は貸し出しすることに問題はないが、診療費のこともあり、紹介状を書くというよりは新規で行かれた方がよいのではないか」と、やはり何処か大学派閥の雰囲気も感じ取れる。
 病院からの帰り道、地下鉄の階段を下る足取りは何時も重い。組織構造上・機能的に良くなることはないにしても、診察室を出た患者に何時も重荷だけを背負わせる診療はいかがなものだろう。少なくともその病状に寄り添ってより専門的な見地から具体的な説明と心の支えになる助言があってしかるべきではないか。
 より確かな多くの情報の中から安心して選べる医療制度が望まれる。

posted by よろてん at 22:26| 京都 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月23日

手と声で背もたれですとアイヘルプ

 NHKラジオの土曜ホットラインの番組の中に「ぼやき川柳」(ぼやせん)というコーナーがある。
 私の作ったものが川柳と言えるかどうか定かでないが、このブログにも以前幾つか書いてみたことがある。

 この前の土曜日。
 「椅子」と「言う」という設題に初投句を試みた。
 全国から千近い投句がある中で、もとより詠まれるはずはないのだが、その時間ラジオにかじりついたものである。
 1時間足らずの間に3・40句は詠まれるのだろう。聴いていると「なるほどなあ」と思う秀作が幾つもある。
 入選作に続いて佳作も幾つか紹介された。
紹介されないのが当たり前と言えばそれまでだがやはりちょっとがっかりする。ここで紹介されるまでになるには相当の修練と無理かもしれないが面白い!と思わせる感性が必要だ。
 私がFAX送信したものは、
  優先席 心があれば無くて良い
  「考えておく」って それは断りね
1句しか投稿できないので
  指定席 当たりはずれの3時間
  「ここだけよ!」 そんなのみんな知ってるよ
は、投句から外した。
今回のお題の「椅子」と「言う」をかけて
  手と声で「背もたれです」とアイヘルプ
世間ではまだ通じない句だろう。
 見えない人に椅子に腰かけてもらう場合、サポートする人は視障者の前に立って「座ってください」と肩を押さえるようにして座らせようとする。どうかすると無言でそれをされる人がいる。これはきわめて不安感を与える関わり肩である。椅子の場所はもとより座面の高さも確かめずに座らされることになる。
 視覚障害者に接する場合のサポートとして、何時も皆さんにお話していることは、背もたれの有る椅子の場合は、必ず背もたれに触れさせてくださいそうすると椅子の位置・方向が分かり、背もたれから手を移動させていくことで座面の高さを自分で確認することができる。と伝えている。
 しかし、この実践なかなか難しそうで、アイヘルパー講座のときにも何度も練習するがなかなかスムーズにはいかないようである。
posted by よろてん at 21:45| 京都 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月19日

盲福研の歩み その5 「点字教室」

 「障害」について、もっと多くの人たちと考え会い・一緒に行動できる仲間を増やしていきたい。
 そうした思いの中から考え出したのが「点字教室」。視覚障害者と点字というのは一般市民の人にとっては最も分かりやすい接点。
 そのころ、点字の学習は施設が点訳者を養成するために独自で行っていたり、ボランティアグループが通信学習として取り組んでいる所はあったが、一般の人に直接点字講習をしているという所はなかった。

 1971年の春。
、「毎水曜日の午後6時から8時まで、ライトハウスにおいて点字を教えます」という内容で募集にかかった。しかし、なかなか希望者か現れない。気にしつつ日が流れる中、自宅に「点字を教えてもらいたいのですが」と30代の男性が訪問してきた。 「きたあ!」と、喜び勇んで点字版を持ち出して1時間近く概要について説明したことを思い出す。
 この受講者第1号のNさん、点字学習の受講者としても熱心であったが、教室が終わってから、私の自宅までよく車で送ってもらったものである。
 その車中いろいろ話をしたが、「点字講習会も行政のバックアップも得てもっと広く市民に呼びかけていけたら良いなあ」という私の思いに同感され、「それなら、私の知り合いの市会議員がいるから紹介する」と言われ、数日後、そのお宅に一緒に出向くことになった。
 座敷に通されて「どういうことですか?」と切り出されても、当時はなかなか順序立てて話を組み立てることはできなかったし、理解してもらえたかどうかは疑問である。
 しかし、我々が訪問したことが直接の要因になったのではないにしても、それからまもなく、施設や当事者団体への委託事業として、市の点訳講習会が開催されるようになった。
 点字教室は、近くのB大の学生などを含め、毎週一人や二人の新人が訪れるようになった。 点字を教えだして、今までの自分の点字は何といい加減なものであったかをまず思い知った。 確かに「点字使用者」ではあったが、だからといって正確な点字が書けた訳ではない。一応「教える」という立場になって自分自身点字の初歩から勉強するようになった。
 点字は表音文字であり、かなの羅列であって、その切れ続きで日本語としての意味合いを持たせるようになっている。文法的なルールによって文節を分けるようになっている。これが教える側・受講する側にとっても一つの興味となっている。
 1年間を経て教室を訪れる人は50人を越えるまでになった。しかし、一度だけ来て顔を出さなくなる人。50音は覚えたが、さてこれから文章書きのルールを教えだそうとしたときに足が遠ざかってしまう人、など新陳代謝も激しかった。
 2年・3年経つ内に自分なりに点字についての知識、教える手順というのもちょっと分かりだし、先輩となった受講者の中にも指導できる人も幾人か現れて、教室は常に30人を越えて部屋がいっぱいになるにぎわいとなってきた。
posted by よろてん at 22:10| 京都 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

盲福研の歩み その4 「ひまあるかい」

 ボランティアのことや施設の運営など、それこそ研究会の名前さながらの理屈が先行する集まりの中、「もっとフランクに見える・見えないを越えて人と人とのふれ合いを増やしていける時間も作っていかねばならないのではないか」との思いがあり、そうした場の設定を企画していこうということになった。
 前にも書いたが、ハイキングなどのレクは奉仕団の友の会が主催して視覚障害者を招待するという形式で年数度開催されていた。
 それを我々は企画段階から一緒にやっていこうということでスタートした。まず、ネーミング。盲福研主催というのではいかにも堅い。こうした遊びの場では違った呼び名でやっていきたいが何かないか?
そこで出てきたのが「暇があったら出て来ない!」と呼びかける「ひまあるかい」。
 この「ひまあるかい」、スタートしてから何年かは毎月いろいろな企画を立てて出かけた。当時は視覚障害者のレクリエーションの内容・数ともに多くなかったことや、気楽にお互いが関わり合えることなどもあって、毎回30から50人の参加があった。
 春には北山へのハイキング、イチゴ狩り、盲人野球など。秋には、ボウリングや柿や葡萄などのくだものがりなど。夏には、Jくんの力添えもあって琵琶湖畔でキャンプも毎年した。キャンプファイヤーを囲んで歌にゲームに楽しんだときは「こんなことも一緒にできるようになったのだ」と感動したものだった。冬には、盲人卓球やスケートもした。
 特に視覚障害者だからといってサポートする側に事前に学習会をした訳でもなく、最小限の心配りについてオリエンテーションをした程度だったが、双方がそれなりの緊張感を持ちつつも楽しい時間を共有しあった。
 しかし、こういうときもあった。秋に飯ごう炊さんの計画があったが、晴眼者数名だけで下見に出かけていたことが分かったときには猛然と彼らに意義を唱えた。 「ひまあるかい」の趣旨が本当に分かっているのかと。そして、視覚障害者当事者の数名で「やっぱり現実には一体というのは難しいのだろうか?」と語り合ったものである。
 お料理教室をしたこともある。その中で、海苔巻きを晴眼者が切ってしまったことに、反省会のときに視覚障害者の方から「自分たちのできることまで取り上げないで欲しい」というクレームがついたことがある。それまで視覚障害者と接したことのない人にとっては包丁を使うような作業については見える者が変わってするのが「親切」と思っていたのだろう。
 手厳しい指摘を受けて晴眼者の方もたじろいだようである。しかし、こうした直接的なやり取りはこれまでにはおそらく無かったことだろう。見える・見えないというのがどういうことなのか?「ひまあるかい」の集まりの中で、実体験を通してお互い理解しあえた場面が幾つもあったことだろう。
posted by よろてん at 17:11| 京都 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月09日

盲福研の歩み その3 「視覚障害者福祉センターについて」

 次に我々が考えたのは「視覚障害者福祉センター」の運営の有るべき姿を施設職員と視覚障害者当事者それにボランティアも加わって、より良いセンター作りを考えていくような集まりが持てないかということであった。
 他のライトハウスの実体はどのようなものであるのか、まず、それを知るために私と同じ青年部のKくんとAさんの3人で名古屋へ出かけた。
 点字図書館長であったIさんにお会いして、点字図書館のこと、奉仕団のこと、盲人協会との協力関係などについてお話を伺った。
 いろいろ刺激を受ける内容もあったが、そのことよりも名古屋ライトハウスが出版していた「やまびこ」という月刊誌に興味を引かれ、Kくんなどは帰りの汽車の中ずっとその点字物に指を走らせていた。というのも、この雑誌は週刊誌から記事を抜粋したもので当時としてはかなり柔らかな性の問題や芸能関係の記事を満載していた。
 当時、点訳に携わってくださるボランティアは奥様族が多く、やはり正当な文学書を手がけられることがほとんどで、違ったニーズを見出して積極的に取り組んでおられる名古屋の取り組みに共感したものだった。
 数ヶ月後、今度はSさんら7名で大阪のライトハウスに出かけた。ここでも職員とボランティアの関係などについていろいろ伺うことができた。
 視覚障害者にとって従来の3療(鍼・灸・あんま)に加えて新職業として電話交換手などの職業訓練の実践の場を見学させてもらうこともできた。
 その後、地元で当事者・施設職員・ボランティアが集まって「福祉センターを考える」という集会を数回持ったような記録はあるが、その話し合いの具体的な内容まで記載されておらず、記憶にも残っていない。
 ただ、このころは施設職員の数も少なく、世代的にも若い人が多かったことから比較的自由に意見交換ができる雰囲気があった。
 このころの福祉における流行言葉を引用するならば、 「of the」(障害者の)、「for the」(障害者のための)でもなく、「with」な意識とスタンスで福祉を考えていける、そんな施設運営があるべきだと盲福研として主調していた。
posted by よろてん at 22:30| 京都 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月05日

盲福研の歩み その2「晴・盲一体」

 青年部の研修会を終えて、帰路の汽車の中の数時間。
 視覚障害者と晴眼者が対等な関係で活動できるグループ作りができないものか。発足するとすれば具体的にどのような人たちにまず声かけしていったら仲間に入ってもらえるだろうか?などの話を数人で熱く語り合っている内に下車駅に着いた。
 青年部から数名、既存のボランティアグループから数名、我々が声かけした人達が市内の喫茶店に集まった。
 複数の視覚障害者と晴眼者が、このようにフリーな立場で施設を離れて集まるということは従来あまり見られなかったと思う。みんなが談笑しながら囲むテーブルの上に誰かが買ってきたあつあつの焼き芋が差し入れられていたことを今も記憶している。
 こうした集まりを数回持つ中で、「今年のライトハウスのクリスマス会は我々で企画してみようではないか」ということになった。
そこで、早速ライトハウスと、これまで主催の中心適役割を果たして来られた友の会の代表者に、その意向を申し出た。ライトハウスの方は「やってみたら!」という感触で、「こちらとしても支援するよ」という言葉はもらえなかった。
 私とAさんの対面朗読の時間は、それから2ヶ月ほど。学習のための本は机の片隅に置かれ、もっぱらクリスマス会の企画会議に埋まった。何としても成功させなければならない!
 クリスマスの会当日は我々が呼びかけたボランティアグループの人たちの参加もあって会場はいっぱいになった。
 ライトハウス主事からは「青年部とボランティアで企画したクリスマス会です」という紹介があったが、「青年部としてやる訳ではない!」と心の中で叫んでいた。
 それまで多くの人が集まっている前で話をするということなど経験したこともないし得意でもなかった。
 それが今回行きがかり上もあるが、私とAさんが司会役となった。他のスタッフのサポートにも助けられ無事宴を修了したときには何ともいえぬ達成感があった。この集まりにNグループの数名が参加していた。
 片づけをしながら我々が考えているグループ作りの話をしたところ、彼らもぜひ一緒に関わっていきたいと心強い反応が返ってきた。
なかでも、Sさんの社会の中の障害者への見方は、私のこれまで見えていなかった視点にたっての見方も持っておられ、こうした人たちも含めてグループ作りをしていきたいという気持ちはなおのこと強くなった。
 年が変わり、昨夏出会ったJくんにも声をかけてグループ作りの準備会をもった。
我々のグループは、晴眼者と盲人が対等な関係で仲間となり、「障害」というものに向かい合い、考え合う・行動していく、ということから、スローガンを「晴・盲一体」とした。
そして、会の名前を京都盲人福祉研究会と、なんとも厳めしい名をつけたものである。
メンバーとしては視覚障害者・晴眼者合わせて10数名の少数で出発した。
 活動の手始めは「ボランティア活動につにて」というアンケート調査を実施した。調査票作り、当時はガリ版印刷。しかし、こうした手作業を力を合わせてやるということが、これまでは別のグループで活動していた者同士の仲間意識を高める良い機会ともなった。
 返ってきた600近い回答を手分けして整理・分析して、数ヶ月後にようやくまとまったものを叩き台にして「ボランティアのあり方」という集会をもった。
 参加者はD大学やN女子大の点訳サークル、私の勤務する病院の看護学生で作る点訳サークル「白百合会」も参加していた。他に長年に渡って施設の奉仕活動をされている方も数名。
 その内容は「与える側」と「与えられる側」という一報通行的な奉仕活動に徹していて良いのか?という我々の考え方を前面に出して、これまでの奉仕活動を批判するような雰囲気があったように思われる。
 今でも印象に残っているのは、施設で熱心に活動され、この集会にも参加してくださった人が、「出て来る所を間違えた」と堅い表情で退出されたことだ。
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2009年06月02日

盲福研の歩み その1 「会発足に向かう動機」

 今のユニーズの前身京都盲人福祉研究会(盲福研)が発足して来年で40年になる。
 私が社会へ出て数年後。それから職場と並行して続いている活動である。
 そろそろ何事についても「まとめ」をしておかねばならぬ岐路にさしかかっている。
 この活動についても、その辿ってきた道筋を今一度振り返ってみることにした。
 当時、日本でもようやくリハビリテーションという考え方が医療の中にも取り入れられ、整形外科が主な対象であったが、治療するだけでなく、社会復帰に結びつけていけるアプローチが求められるようになってきた。
 私も院内で理学療法士という立場で患者さんと向かい合っていた。
 歩行困難だった人が足に筋力を付け杖を使って自由に移動できるようになり、退院される。それから幾日かを経て外来へ来られたとき、「どうですか?」と訊ねてみると「外へは出ていない」と言われる。
 こうしたケースの場合、ご本人が以前とは違った姿を知り合いに見せたくないというようなこともあるが、家族の人が「杖を使ってまで外出しないでくれ。恥ずかしいし危ない」と停止がかかる場合もあると聴いた。
 その人をどれだけ励まし機能的にも向上させる手伝いをしても、個人や社会の「正常でなくなったらお終い!」という価値観が変わらないかぎり、真のリハビリはないし、我々のアプローチも無為に終わってしまうのではないかと考えた。
 そうした思いもあって、通信大学で福祉や障害について角度を変えて学んでみることにしたのもこのころである。
 同時期、視覚障害者の当事者団体である盲人協会(今の視覚障害者協会)の青年部の役員をしていた。
 見えないがゆえに職業選択の自由がない問題、教育や生活場面においてもバリアの多い実体など。それらをどう打破していかねばならないかを若い仲間同士盛んに話し合ったものである。
 その夏、隣県で全国の盲青年大会が開催され我々も協力スタッフとして参加した。
キャンプファイヤーを囲んで参加者一同、歌い踊ったものである。
 この企画の手伝いをしてくれたYMCAのJくんと、その夜、1奉仕者というよりも同じ若者として話が弾んだ。
 同年輩の若者同士であっても、見える者と見えない者の間には「サービスをする人」と「サービスを受ける人」という立場があり、どうしても取り去れない垣根が存在している。そんなことを常々感じていただけに彼との出会いは一つのきっかけ作りとなった。
 理学療法士として仕事をしていくための点字の参考書はほとんど無いに近く、通信大学の教科書もしかり。
 そこでライトハウスに週2回の対面朗読ボランティアの依頼をしていた。
 対面朗読とは、毎週決まった時間に、利用者とボランティらがライトハウスで、視覚障害者が読んで欲しい本を持ち込んで、それを読んでもらいながら必要箇所に応じて点字で移し書きしたりテープ録音したり斜め読みしてもらったりする。
 私の持ち込んだ本が医学関係のもので日頃使わない漢字などが諸処に出て来て、その文字調べで朗読事態は思ったほど進まなかった。
2時間の後半はお互いちょっと疲れ気味で本をおいておしゃべりすることが多くなった。ここでも先のJくん同様、聞き手と読み手の立場を離れて「ボランティア」などについて、それぞれの考えを話し合うことが多くなった。
 この話し合いの中で読み手のAさんに「この秋、青年部で泊まり込みで研修会があるのだけれど、もし良かったらお友達と一緒に参加してみませんか?」と誘ってみた。
 視覚障害者のことについても興味をもっていたAさん、その申し出を承諾した。
 ところがライトハウスの職員から「内のボランティアをかってに引っぱり出してもらっては困る!」ときつい反応が返ってきた。
 この場合、我々としては、1青年部員がAさんという個人を誘ったという意識だったが、役員をしている私が奉仕団の一人であるAさんにボランティアをお願いするということと受け取られ、道理を通していないということで反発をくらった。
 こうしたすれ違いが以後の活動でも幾たびか生じている。これは大局的に考えれば私の足らざる所となっており、今日的課題ともなっている。
 しかし、当時の我々の思いとしては、個人と個人のやり取りにどうして枠組みをはめようとするのか、と苛立ったものである。

posted by よろてん at 23:41| 京都 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ユニーズの歩み | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月21日

ベッドサイドに立って その9 「ありがとう!おかあさん」

 病室に入ると、何か悲しそうな顔をしているという。
 額に手をやると皮膚が上下に微かに動くのが分かる。
 母の意識が微かでも残っている間に言っておきたかった「ありがとう!」を耳元で声に出す。しかし、この言葉を口にしたら、きっとこうなってしまうだろうな、と心の中で思っていたことが現実となる。なさけなくも、涙があふれ出し、大声を出して泣いてしまう。
 母の一生の中で私にかけた心配がどれほど多かったか!良きにつけ悪きにつけ、私を精一杯フォローしてきてくれた時間の流れ。
そうした想いと、これまでのいろんな場面が、一気に駆け上がってくる。
 翌日、昨日からみると呼吸の状態が早く、痰も貯まり辛そうである。
 次の日。血圧も低下しており透析はできない。
 夕方、いよいよ来るべき時が近づいてきたようだが、今しばらくは大丈夫ということで、一旦帰宅し風呂に入った後再び病院へ向かう。
 午後9時からベッドサイドに腰かけて母の腕を握る。脈波弱いながらに確実に打っている。痰が貯まり苦しかろう!「すみません、痰が貯まってしんどそうなので」とナースコールを何度か押す。夜間でもあり人出は少ない中ではあるが、速やかに吸飲してくれる。吸飲のたびに出血量は増してくる。呼吸の感じもつらくなってくる。心電図の警告音も鳴り出す。
 夕方から父は「見ているのが辛い」と自宅へ帰っている。「ご主人に連絡されますか?」との声かけもあったが、最後は我々夫婦で見取ることにする。
 「おかあさん、もうすぐ楽になるよ!」と最後の力をふりしぼっているような母の肩に手をややる。
 ほどなく、呼吸は停止する。午後10時18分、「ご臨終です」と宿直医の事務的な声が届く。
 苦しかった時間からようやく母は解放されたのだという思いが広がる。
 てきぱきと気持ちよく死後の処置をしてくれる看護士の対応に感謝と最後を見取れた一種の満足感が心をおさめてくれた。
 母の心臓はけっして弱くはなかった。母の晩年の入院生活の時間の積み重ねからすると、この生命力の維持は当人にとっては望むところではなかったかもしれないが、最後のがんばりは、何処か生き抜いていかねばならないという何かを訴えているようにさえ感じさせるものがあった。
posted by よろてん at 19:45| 京都 晴れ| Comment(0) | TrackBack(1) | ベッドサイドに立って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月12日

    ベッドサイドに立って その8 「父のための時間」

 秋になって、母は酸素吸入をする日が多くなってくる。
 こうなってくると、何時何がおこるか分からない日々となる。
 これからの1日1日の積み重ねは、母を見舞うことで生活の支えとなっている父のために、母の生命力がどれほど続いてくれるかということになる。
 以前よりは脈も浅くなり、今までになかった所にも浮腫が目立ってくる。
 口を半開きにしてやっている呼吸が、こちらに何か言おうとして伝えきれない。もどかしさのようにも見えてしまう。
 10月になって、IVH(高カロリー輸液)を使い出す。
 父はベットサイドに立っても母の衰弱状態をみて声もなく立ちつくすことが多くなる。
 12月になり、意識朦朧状態が続いているが、どうしたときか、ちょっと笑い声を出した時がある。こちらがいったことに反応して声を出したのかどうかは分からないが、それでもちょっとほっとする時間である。

 年が変わる。
病室に入り声をかけると、「ああ」と言い目を開ける。声の調子から痰が貯まっている様子が伺われる。
 「おかあさん」と母の耳元で呼びかけると、隣のベッドの患者さんが「おかあちゃん」と大きな声で呼び続ける。
 こうした状態の中で、今、私は母にどう向かい合い手をさしのべるのが良いのか?それが見えないもどかしさがある。
 2月。病室へ向かう階段半ばで院長と出会う。「血圧も下降しており、透析も半ばで中止した。お父さんにも言ったが、これ以上の処置はせず自然の状態で見守りたい」と、死の宣告間近であることを告げる言葉としては、あまりにたんたんとした重みを感じない声かけであるように家族としては受け取った。
 母の手を取る。布団の中にあることもあろうが暖かい。小さくなった顔や腕に触れながら「いよいよか」と思うと寂しさが…。
posted by よろてん at 22:17| 京都 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | ベッドサイドに立って | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする